2019年7月18日(木)

巨大化の陰に騎馬文化 百舌鳥・古市古墳群(もっと関西)
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関西
2019/4/24 11:30
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大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵古墳、堺市)や誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵古墳、大阪府羽曳野市)を中核とする百舌鳥(もず)・古市古墳群の世界文化遺産登録への挑戦が大詰めを迎えている。4世紀後半から5世紀、これら巨大な前方後円墳が幾つも大阪平野に築かれた背景には何があったのか。キーワードは「騎馬文化」だ。

古市古墳群の中核をなす誉田御廟山古墳。前方部手前の拝所の左に誉田丸山古墳がある

古市古墳群の中核をなす誉田御廟山古墳。前方部手前の拝所の左に誉田丸山古墳がある

多彩な文化渡来

この時代を代表する遺物が、誉田御廟山古墳の隣にある誉田八幡宮に伝わる。中盛秀宮司に案内されて拝観庫に入ると、見事な金光細工がガラスケースに収められていた。国宝「金銅透彫(すかしぼり)鞍(くら)金具」だ。江戸後期、誉田御廟山古墳の前方部に隣り合う誉田丸山古墳(直径約50メートルの円墳)から出土した。

鞍に付ける装飾具で、唐草文のような龍の姿がびっしりと透かし彫りされている。大阪府立近(ちか)つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は「東アジアを見渡しても見事な優品。大王を支えた有力な武人が葬られた古墳だろう」と語る。この鞍金具を筆頭に、多彩な文物や技術が海外からどっと倭国(わこく)へ伝わったのが百舌鳥・古市古墳群の時代だった。「古代の文明開化」と白石さんは言い表す。

当時の情景を、25キロ北にある蔀屋(しとみや)北遺跡(四條畷市)が物語る。大規模な馬の牧場跡で、遺跡と周辺では馬具を作る鍛冶や金工、窯業、飼料となる麦作など多様な産業が勃興し、日本各地に広がった。「馬の飼育をはじめ、どれも渡来系の人々の関与が欠かせなかった」と諫早直人・京都府立大准教授は指摘する。

誉田八幡宮に伝わる国宝の金銅透彫鞍金具(大阪府羽曳野市)

誉田八幡宮に伝わる国宝の金銅透彫鞍金具(大阪府羽曳野市)

他方、木工や製塩などには倭の在来技術も併用された。「渡来系の人々と倭の工人らが混住し、協業していた。技術習得のためか、早く根付かせて次の渡来系集団を呼び寄せる狙いか」。諫早さんは権力者の差配があったと推察する。

出土する馬具はほとんどが騎乗用。主な用途は農耕や荷役ではなく騎兵、軍用だったとみられる。馬が日本列島に渡来したのは縄文期とも弥生期ともされるが、騎馬文化が本格的に伝わったのはこの時代だ。

大阪平野に移る

この大変革を「大陸の騎馬民族が海を渡ってきて倭を征服した」と解釈したのが、江上波夫・東京大名誉教授が約70年前に唱えた「騎馬民族征服王朝説」だった。一世を風靡(ふうび)しながら反論が相次ぎ研究者には受け入れられなかったものの、4~5世紀に画期を見いだして東アジア全体を俯瞰(ふかん)して古代を論じる視点は、今なお高く評価されている。

確かに当時は民族大移動の時代だった。北方の遊牧騎馬民族、鮮卑が高句麗を攻め、高句麗は朝鮮半島を南下して百済など半島南部の諸国を圧迫。彼らは倭に協力を求め、高句麗の騎馬軍団に対抗すべく新技術を伝えた――。諫早さんは「半島側の思惑を倭は主体的に受け入れた。双方の利害が一致した互恵的な関係だった」と分析する。

時を同じくして巨大古墳の築造地が奈良盆地から大阪平野へ移った。倭は各地の首長が構成する連合政権だったが「それまで宗教的な権威で政権を主導してきた奈良盆地の勢力では世界的大動乱に対応できず、外交や交易を担っていた大阪平野の勢力に実権が移ったのでは」。こう語る白石さんは「百舌鳥・古市古墳群は倭が東アジア文明の仲間入りをした、重要な時期の遺跡」と、世界文化遺産登録を心待ちにする。

編集委員 竹内義治

写真 淡嶋健人

 《ガイド》誉田八幡宮は近鉄古市駅下車、徒歩約10分。誉田丸山古墳出土の国宝「金銅透彫鞍金具」を収蔵する拝観庫は毎週土曜の午後1時~4時、拝殿受付に申し込めば見学できる。源頼朝が寄進したと伝わる国宝「塵地螺鈿(ちりじらでん)金銅装神輿(しんよ)」(鎌倉時代)や、誉田御廟山古墳の周濠(しゅうごう)から出土したとされる蓋(きぬがさ)形木製品なども展示している。

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