2019年5月20日(月)

隠れた「絢爛」静思の間 銀閣寺 東求堂「同仁斎」(もっと関西)
時の回廊

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関西
2019/4/10 11:30
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北向きの明かり障子を開けると、苔(こけ)むした庭の眺めが障子によって切り取られ、まるで一幅の絵をみるかのようだ。庭のキリシマツツジは4月末になれば真っ赤な花を咲かせるという。京都・東山の銀閣寺(慈照寺)の境内にある国宝、東求(とうぐ)堂。その四畳半の間「同仁斎(どうじんさい)」は、室町幕府8代将軍、足利義政(1436~90年)が愛した書斎である。

障子を開け庭の借景を掛け軸のように見立てている書院「同仁斎」(京都市左京区)

障子を開け庭の借景を掛け軸のように見立てている書院「同仁斎」(京都市左京区)

■初期の書院造り

東求堂は1486年、阿弥陀如来像を安置するための持仏堂として建立された。4つの部屋のうち、仏間の東にあるのが、「同仁斎」と名付けられた小さな四畳半だ。細部にまで美意識が貫かれた空間は、静思と内省の場にふさわしい。

部屋の北面には、現存する中で最古という付書院(出文机)と違棚がある。畳を敷き詰め、ふすま障子で小部屋に仕切った手法は、現代の和室につながる書院造りのルーツだ。四畳半茶室の起源ともされる。

義政が東山で山荘造営に着手したのは46歳の時。自らの優柔不断が勃発の一因となり、京を焼き尽くした応仁の乱の終結から5年がたっていた。山荘造営は戦乱に疲れた権力者の現実逃避の願望ゆえだったのか。

しかし義政は世捨て人だったわけではない、と指摘するのは、ベストセラー「応仁の乱」の著者、呉座勇一国際日本文化研究センター助教だ。「政治を捨て、趣味の世界に生きた無責任な将軍といわれるが、実際の義政は将軍職を息子の義尚に譲った後も、死ぬまで権力を手放すことなく政治に関わり続けた。同仁斎は義政が一時的に権力者の重い衣を脱ぐ場所だった」

実は義政は、応仁の乱の前に南禅寺付近に山荘を計画していたという。だが、乱の勃発で頓挫。長年の夢をようやく実現したのが東山山荘であり、範としたのは京都北山の北山第(金閣寺)で権勢をふるった祖父、義満の大御所政治だった。

東山での生活は必ずしも簡素枯淡だったわけではない。表面に簡素を押し立てているが、目を凝らせば随所に豪華絢爛(けんらん)が隠されていた。違棚や付書院に茶道具や文具が飾られた同仁斎は展示の場であり、「現世における享楽のための演出された生活空間」(川上貢著「銀閣寺」)でもあった。

■北東20メートル曳家?

国宝に指定されている東求堂(京都市左京区)

国宝に指定されている東求堂(京都市左京区)

義政の遺命により山荘はのちに禅寺と改められたが、創建当時の建物で現存するのは観音殿(銀閣)と東求堂のみ。東求堂はこれまで何度か修復を重ね、1964~65年に解体修復された。その際、柱などに残された大工仕事の痕跡などを調査したところ、移築のために導入されたとみなされる後世の手法が混じっていたことが分かった。

「堂の下には庭の跡も見つかった。あくまでも推測だが創建時の東求堂は現在とは別の場所にあったのではないか」と京都府の元文化財専門技術員で一般財団法人建築研究協会の中尾正治理事は語る。

江戸の寛永年間(1624~44年)、寺全体が修繕され、方丈(本堂)などが新たに作られた。東求堂はその時、建物ごと曳(ひき)家されたのではないかと、中尾さんはみている。推論どおりなら現在、銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる砂盛りの辺りにもともとあったものが、北東へ20メートル近く移動したことになる。

だとすれば東求堂から観音殿は目と鼻の先だ。義政は観音殿の完成を見ることなく54歳で世を去ったが、普請中の観音殿の槌(つち)音は晩年の義政の心にどう響いていたのだろうか。

文 大阪地方部 岡本憲明

写真 大岡敦

 《交通・ガイド》慈照寺(銀閣寺)へは京都市バスの「銀閣寺道」から徒歩約10分。東求堂は5月6日まで特別公開中。同仁斎では、寺に伝わる秘伝書「君台観左右帳記」に基づいて付書院や違棚に茶器などが飾られている。寛永年間に造られた方丈や1996年に改築された香座敷「弄清亭(ろうせいてい)」も拝観できる。方丈では与謝蕪村と池大雅のふすま絵(複製)が観賞できる。

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