繁栄伝える 大壁の白 旧三上家住宅(もっと関西)
時の回廊

関西タイムライン
2019/4/3 11:30
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江戸後期に建てられた旧三上家住宅(京都府宮津市)は日本海側の浦々の繁栄ぶりを今に伝える。主屋(しゅおく)は軒下までしっくいで塗り込められ、近寄って下から見ると、より強く白さを感じる。宮津藩財政や町政に深く関わった三上家は糸問屋や酒造業を営み、後に北前船の回船業に乗り出した。

1783年の宮津大火後に再建された大壁造の旧三上家住宅(京都府宮津市)

1783年の宮津大火後に再建された大壁造の旧三上家住宅(京都府宮津市)

■大火後すぐ再建

2階建ての主屋(建築面積約160平方メートル)は1783年(天明3年)の宮津大火で類焼した後、わずか10カ月で再建された。職人の出勤簿である出面帳(でづらちょう)が残され、大工や左官、木挽(こびき)など、職人30人がのべ1900日余り働いたことが分かる。大工の坪あたり工数でみると、当時の町家建築の3~5倍の手間をかけたぜいたくな造りだった。

主屋は火事を教訓に全体が土蔵のようにできている。外部に面する柱ごとしっくいで塗り込めた大壁造(おおかべづくり)で、窓や出入り口、煙出しにまで土扉を設けた。順次増築した新座敷や庭座敷、酒造蔵など計8棟が2003年に重要文化財に指定された。

もう一つの特徴は細部のこだわりだ。釘隠しの金具は蘭、葵(あおい)、花菱、桃など部屋ごとにデザインを変えた。欄間に彫り込んだコイにめのうの玉眼が入る。敷地南側の庭園は宮津藩御用庭師の江戸金の作と伝えられる。限られた空間に池と築山、石組みを配置する。

これほどの町家建築はなぜ生まれたのか。宮津市文化振興課の河森一浩主任は「他地域の北前船の商家と比べても、上品で手が込んでいる。景勝地の天橋立を控えて、古くから和歌や俳句、絵画などの文化人が集まるなど、地域に蓄積した文化の厚みが反映された」と解説する。

京都府立丹後郷土資料館に展示されている北前船の模型

京都府立丹後郷土資料館に展示されている北前船の模型

■北前船の寄港地

宮津に富をもたらしたのは北前船だ。河村瑞賢が1672年(寛文12年)に西回り航路を開いて以降、蝦夷(えぞ)地の物産を日本海、瀬戸内海を経て大坂に運んだ。点在する寄港地の文化財が文化庁の日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落」に認定され、2018年には旧三上家住宅も構成文化財に加えられた。

近世に入って荒波を乗り切るために船首と船尾の反りが大きくなるなど、船型も進化した。京都府立丹後郷土資料館の森島康雄資料課長は「帆の素材もムシロからしなやかな木綿布に変わり、操作が容易になった。船腹を膨らませて多くの荷を積めるようにも工夫された」と話す。

三上家文書を調査した京都府立大学の藤本仁文准教授(近世史)によると、三上家は幕末から明治にかけて9隻を所有していた。第2次長州征討が起きた1866年(慶応2年)には、会津藩の米輸送を請け負っている。船が大坂から西回りで新潟方面の積み出し港に向かう途中、萩沖で長州藩に拿捕(だほ)された。船内の帳簿から「会津藩御用」が発覚し、船頭らが取り調べを受けたという。

北前船は幕末の動乱に足跡を残しただけでなく、「流通のダイナミズムによって現代につながる食文化を生み出すなど、今も大きな影響を与えている」(藤本准教授)。北前船商人の活動は各地の客船帳などに残るが、それぞれの郷土史研究の枠組みのなかではあまり解明が進んでいない。

日本遺産を契機にした寄港地の連携が観光にとどまらず、研究成果の共有に発展すれば、北前船の姿はより明確になるはずだ。

文 大阪地方部 木下修臣

写真  大岡敦

《交通・ガイド》旧三上家住宅は京都丹後鉄道の宮津駅から徒歩15分。開館時間は午前9時~午後5時。年末年始は休館。京都府立丹後郷土資料館(宮津市)には、江戸時代に寺社に奉納された10分の1の北前船の模型が2隻展示されている。京都丹後鉄道の天橋立駅から車で15分。午前9時~午後4時半。毎週月曜と年末年始は休館。
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