2019年8月21日(水)

ソーシャルの先駆者、ミクシィが見た天国と地獄
ソーシャルの衝撃(1)

ネット興亡記 第4部
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2019/3/31 2:00 (2019/4/1 2:00更新)
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インターネットは私たちのコミュニケーションの形を変えた。かつては電話帳の中に潜んでいた人と人とのつながりがインターネットと結びついたとき、膨大なデータに変わった。ソーシャルネットワーク革命は巨大産業を生み出す一方、個人データのあり方などの新たな社会問題を私たちに突きつけている。ネット興亡記・第4部は「ソーシャルの衝撃」の担い手たちの実像に迫る。

【次回記事】ミクシィを救った「落第生」 執念のモンスト開発

■一般社員と同じ席に

2015年4月初め、東京・世田谷の駒沢公園。花見客たちに1枚のビラを手渡しで配る男がいた。ミクシィの創業者で会長の笠原健治だ。「家族で写真を共有するアプリです。お子さんの成長の記録に、ぜひどうぞ」

笠原氏は1人で「みてね」のビラを配りに行った

笠原氏は1人で「みてね」のビラを配りに行った

会長といっても、オフィスに戻れば笠原の机は一般社員と横一列に並んでいる。経営者からひとりのクリエーターに戻り、自ら開発チームを率いていた。この日はリリースしたばかりの写真共有アプリ「みてね」の手応えを知りたいと思い立ち、1人で公園に集まる家族連れに声をかけて回った。

その男が、かつて一世を風靡した和製SNS(交流サイト)の生みの親であることに気づく人はいない。笠原は「けげんな顔をされて、ちょっとへこみました」と振り返るが、その表情はどこかすがすがしい。

■笠原氏の再出発

SNS「mixi」の不振にあえいでいた2013年。笠原は「私がフル回転できるのはアイデアを軌道に乗せるまで」と言い残して経営の一線を退いた。世間は一つの時代の終わりと見たが、社長室から出た笠原はひとりの作り手として再出発を期していた。

最近の笠原氏

最近の笠原氏

それから6年。再起をかけてリリースした「みてね」は軌道に乗ったが、かつての栄光には遠く及ばない。笠原は「あの悔しさはまだ解消されない」と言う。

起業家として頂点とどん底を味わってきた笠原。その出発点にあったのは、小さな挫折だった。

■東大水泳部を辞め無為の日々

度重なる腰痛が原因で東京大学水泳部を辞め、目的のない日々が続いていた。大学3年になる頃、経営戦略のゼミで1冊の本を手に取った。NHKがまとめた「新・電子立国」。米シリコンバレーを舞台に繰り広げられる若き起業家たちの攻防劇が活写されている。

「ベンチャーという道もあるのか……。でも俺には何ができるだろうか」。起業家にあこがれるものの、アイデアが何も浮かばない。何か夢中になれるものが欲しかった。当時住んでいた東急・日吉駅近くの陸橋からため息交じりで眺めた景色は、今も脳裏に焼き付いているという。

イー・マーキュリー起業初期のメンバー(後列右から2人目が笠原氏)

イー・マーキュリー起業初期のメンバー(後列右から2人目が笠原氏)

■1997年、ネット求人サイト

きっかけはアルバイト先の先輩のぼやきだった。「こんなにカネを払って求人情報を載っけてもマッチ箱くらいの大きさ。これじゃ、人が集まらない」

時は1997年のインターネットの黎明(れいめい)期。笠原はネットと求人の相性は良さそうだとひらめいた。ネット求人のサイトを調べてみると「続きは誌面で」と書いてあり、雑誌を買わざるを得ない。せっかくネットを使っているのにその力を生かし切れていないように思えた。「これなら俺一人でもできる」

「やるなら今しかない」。意を決した笠原は、ゼミ合宿に参加するためにためたお金をはたいて初めてパソコンを買った。ホームページ作成の入門書を参考に、無心でキーボードをたたいた。

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