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人がやらぬことをやる イチローが貫いたスタンス

 イチローの成功の秘密はひと言、「人のやらないことをやったから」――。野球評論家で、オリックスの新人時代からその才能に注目していたという「イチロー・ウオッチャー」、権藤博さんに引退の報に接しての思いを寄稿してもらった。

イチローの引退の知らせに驚く一方、昨年あたりから、そろそろ危ないかもという虫の知らせもあったので、やはり、と思わないでもない。

危ないかもと思ったのは2018年3月の米アリゾナでのキャンプを視察したときのこと。オープン戦で「1番・左翼」で先発出場したが、右ふくらはぎを痛めて打席に立たないまま、退いた。表の守りで特に激しい動きをしたわけでもなかったのに痛めた。

記者会見で現役引退を発表するイチロー。驚く一方、昨年あたりからそろそろ危ないかもという虫の知らせもあった

44歳になっていたとはいえ、イチローにあるまじきアクシデントに不吉なものを感じた。驚異的な回復で開幕には間に合わせたが、結局、5月には会長付特別補佐という肩書になって、以後の試合には出場しない、と発表された。

日々の積み重ねが生んだヒーロー

その後の約1年、試合に出ないと決まっているのに、いつもと変わらない調整を続けたという。イチローにしかできないことだろう。引退会見で「これはひょっとすると誰にもできないこと。いろいろな記録よりも、自分の中ではちょっとだけだが、誇れることかもしれない」と話したそうだ。

試合があってもなくても自分を厳しく律することができるのがイチロー。その日々の積み重ねによって生まれたヒーロー、ということがよくわかるエピソードだ。

その自己管理に狂いはなかっただろうが、一つだけ問題があった。走る、守る、投げるの3要素は日ごろの練習だけでレベルを保つことができるが、打撃だけは実戦のボックスに立たないと、たちまち鈍ってしまう。

たとえていえば、それは試験もないのに勉強だけ続けるようなもので、点数がつかないから自分が今どの位置にいるかもわからないし、モチベーションも湧いてこない。

試験で点数が出れば、良くても悪くても、ますますやる気になったり、これではだめだと発奮したりするだろう。「採点」がない、つまり勝ち負けがつかないことほど、張り合いのないこともないわけだ。

特にイチローは結果だけを励みにして伸びてきた選手だ。振り子打法では打てないといわれ、それを見返すために、試合という試験で安打を放ち、点数をとり続けた。そのために、キャンプでは全体練習のあと、室内にこもり中からカギをかけ、だれにも見られないようにして打ち込んでいた。3時間も4時間も出てこないから、取材の記者は困ったそうだ。

今日をつくり上げた「緊張感」

試合で打てなかったら、打撃指導が入って、いじられる。そうならないようにするためにも打ち続けるしかないという緊張感が、今日のイチローをつくり上げた。

その緊張感がないまま過ごした1年のブランクを克服することは、イチローにとっても難しかったということだろう。

イチローの復帰の条件は日本でのアスレチックスとの開幕2連戦まで、というものだったそうだ。

オープン戦と合わせても30打席あまりという打数で、結果を出せといわれたら、イチローもしんどい。

イチローの守備の動きや肩は全く問題ない=共同

レギュラークラスの選手がなぜ、安定して成績を残せるかというと、ある程度の打席数が保証されているからだ。ちょっとだめでも、いずれ打てる、と考えることで気が楽になり、バットが振れる。技術があるからレギュラーなのだが、レギュラーだから打てる、という部分もあるのだ。

若手が下からはいあがろうとするとき、誰がみても力はあるのに、1軍に定着できないケースが見受けられる。打席数が保証されていないから、結果が出ないと焦る。焦るからバットが出ない。その悪循環となってしまうのだ。

イチローも守備の動きや肩は全く問題ない。打撃も、シアトルに帰ってからまだ時間をかけて見よう、ということにしてくれていたら、打てたかもしれない。そう考えると、なんとも惜しい。

そんなにちょくちょく話すというわけではないが、私とイチローの付き合いは長い。

私がダイエー(現ソフトバンク)投手コーチをしていた1992年のこと。オリックスが高校を卒業したばかりの選手を打席に送ってきた。新人歓迎の意味を込め、いつものようにバッテリーに直球だけを投げさせた。1球、2球と、イチロー(当時の登録名はまだ鈴木)はフルスイングでファウルし続ける。

きりがないので「遊びは終わり」とスライダーを投げさせた。普通は空振りしておしまいだ。ところが、イチローは完璧に反応し、真芯でとらえた。高校を出たばかりで、こんなすごい打者がいるのか――。衝撃の出会いだった。

興味を持った私は次の日、練習中に「権藤です」とあいさつにいった。「知っています。父から聞いていますので」。イチローの出身地は、愛知県豊山町。ドラゴンズの地元であるだけに、私の名も知られていたようだ。

「君はできるよ」と、イチローを激励して別れたのだったが、次に対戦したときはもういなくなっていた。

1994年9月、シーズン最多安打のプロ野球タイ記録を達成し、仰木監督(左)と握手する=共同

振り子打法は誰も理解できず、1、2年目は1軍、2軍を行ったり来たり。3年目、仰木彬監督が就任してやっと日の目をみたのだった。

誰になんといわれようと、自分で納得したことをやる。人のやらないことをやる。これがイチローの現役生活を貫いていたスタンスだろう。

足元にも及ばないが、私もコーチとして、監督として、人と同じことをやったのではつまらない、同じ山を登るのでも絶対人と反対側から登ってやろうというタチだったから、イチローには「同族」のにおいを感じる。

きっぱり辞めるのも流儀なのだ

メジャーの選手でなくなったあとの身の振り方を聞いたこともなかったが、私は日本球界復帰は絶対にないと思っていた。

古巣のオリックスであれ他の球団であれ、どこでもイチローならのどから手が出るほどほしかっただろう。何億円という年俸を出し、先発で使い続けたはずだ。

だが、それは望むところではなかったはずだ。渡米したときも、新人としてゼロから出発した。振り子打法で道を切り開いた日本時代からメジャーまで、自分の腕一本でのし上がってきた。のるか、そるかのきわどい勝負のなかで生きてきたイチローにとって、特別待遇が待つ日本球界への復帰は戦いをやめることに等しい。

まだまだできるのに、という思いはあるが、きっぱり辞めるのもイチローの流儀なのだと思って、あきらめよう。

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