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大学スポーツ、自ら価値を再発掘し社会に問うとき

FIFAコンサルタント 杉原海太

3月1日に一般社団法人「大学スポーツ協会」(UNIVAS)が発足した。高校の運動部には全国高等学校体育連盟(高体連)、中学の運動部には日本中学校体育連盟(中体連)という統括組織があるが、大学の運動部にはそういう組織がこれまでなかった。UNIVASは「大学スポーツの収益化」「学生の安全確保」「学業との両立」などを目的に掲げ、改革への第一歩を踏み出したようだが……。

2018年は大学スポーツから、日大アメリカンフットボール部のタックル事件のような問題が噴出した。大学の運動部がきちんとした法人格を持たずに昔からの流れで何となく慣習的に行われていること、それゆえに時代にそぐわない事件が起きる土壌が温存されていること、また事後の対応もなっていないさまを見ると、運動部といってもサークル活動とたいして変わらないのではないか。そんな印象を持たれた人は結構いるのだろう。

スポーツ庁の鈴木大地長官(左)にUNIVAS設立を報告する鎌田薫会長=共同

前回の当欄で私は「高校の部活動のバージョンアップが必要だ」と書いたが、大学スポーツもいろいろと刷新すべき点は多いようである。

現状、大学の運動部は任意団体で、運営はOBらの寄付金などで賄われ、伝統も人気もある部は、それなりにお金は循環しているらしい。大学の中に学業と競技の両立を目指せる環境があるのは素晴らしいことなので、大学当局も運営に正式に関わって、側面からでも運動部にガバナンス(組織統治)を利かせるのはいいことだと基本的には思っている。だから、始まる前からUNIVASのことを「どうのこうの」とケチをつける気はない。

カネは目的遂行のための手段

ただ、花形競技のアメリカンフットボールやバスケットボールの放映権料をテコに年間1千億円以上の収入を稼ぐ全米大学体育協会(NCAA)を手本に、大学スポーツの産業化が強調されることには一抹の不安を覚える。「米国の大学はこれだけ稼いでいる」「だから我らも日本版NCAAを」というのは筋としてあまりいい話ではないと思うのだ。カネはあくまでも目的を遂行するための手段であって、それ自体が目的になっては、逆立ちして歩くようなことになってしまう。

大学スポーツ関係者とミーティングを持つ機会はあるので、彼らが資金集めに苦労していることは私も理解しているつもりだ。練習環境をもっと整備したい、有給で有能なコーチをもっと雇いたい、アドミニストレーション(管理)の部門をもっと充実させたい……。そういう彼らの願いをかなえ、スポーツ団体を持続的に運営し発展させるために、お金が必要なのは自明のことだ。

一方で、スポーツ団体は、企業のように稼いだ利益を株主に還元することを目的にしているわけではない。たとえば、公益財団法人の日本サッカー協会は年間200億円規模の予算で動いているが、実入りの大半はサッカーの普及と育成と強化に再投資されている。団体の目指すところが公益にかなうために、スポンサーも安心して協力を申し出ることができる。プロ選手を抱えた日本サッカー協会でもそうなのだから、大半がアマチュア選手の大学スポーツの目的設定も産業化が前に出てくるのはどうかと思えるのだ。

それでは、大学スポーツのバージョンアップはどういう方向でなされるべきか。私は、やはりそれは、スポーツを通じた人間教育にあると思っている。

先日、ある大学ラグビー関係者と話す機会があったが、彼らの問題意識も「最優先すべきはここが大学であり、教育である」ということだった。

彼らがいうには、ラグビー部には監督がいて、練習メニューを考えたり、対戦相手を分析したりするスタッフもいて、練習はシステマチックになっている。が、ある意味、恵まれた環境になったがために、選手が自分の頭で考えなくて済む状況が生まれつつあるという。自分で考える力を養うことはプレーのパフォーマンスに影響する。特にラグビーのような刻一刻と状況が変化する競技では、主体的に動けるかどうかが肝になるにもかかわらず。

そう語った関係者は「そういう人材を社会に送り出した後のことも気になっている」という悩みも吐露された。

この話を聞いて痛感したのは、スポーツには教室では得られない価値があるということだった。スポーツは、本質的に現実にはないルール(サッカーなら足だけでボールを扱う、ラグビーなら前にボールを投げないなど)を設定して、勝ち負けを競うものである。

一つの試合、リーグ戦、長いシーズンの中ではいろいろなことに襲われる。そのプロセスでピンチをチャンスに変えるために自分であらゆる創意工夫をする。昨日より少しでも前に進む、上達しようと試行錯誤する。失敗や挫折の方が多いかもしれないが、結果よりも、そのプロセス自体に価値があるともいえる。そういうバーチャルな世界をつくって、真剣に勝ち負けを競うことは、ある意味、人生のシミュレーションにもなる。

社会に出る前に、そういう疑似体験ができるのは、スポーツのかなり根源的な価値ではないだろうか。

創意工夫は、本気で勝ちたいと願えば願うほど、極限のものが絞り出される。限界を超えても、という頑張りは「勝ち負けなんか関係ない。楽しければいい」という前提からは生まれない。

そういう諦めないキャラクターは、社会に出たときに役に立つ。大学スポーツ界は、そこを、もっと明確に主張した方がいいように思う。それは上の命令に絶対服従するような「体育会」のイメージを刷新することにもつながるだろう。

勝ちたい気持ちは増殖するし暴走もする。本気で勝とうとするプロセスは尊いが、それがルール違反や選手の健康を害するようなところまで行っては本末転倒になる。指導者の体罰もそうだ。大リーガーですら球数に気を配るのに、前途ある少年や高校球児に球数制限がないのは、おかしな話であろう。勝利を追求しながら、勝利至上主義は抑え込む、そのバランスを具体的に施策に落とし込むのは「大人」の責任であり、仕事である。

大学スポーツの再編や刷新は、そういう「大人」を生み、育てることにつながるようなものでないと意味はないとも思う。

駅伝で青学大の選手たちは原晋監督から自立を促す指導を受けている

大学スポーツの価値の再検証は、スポーツ庁やUNIVASに頼らずとも、大学が自分たちの身の丈に合ったモデルケースを出していけるようにも思う。すぐにでもできるし、現実的でもあろう。

教育的価値へのインパクト評価を

具体的には、大学の運動部を対象にスポーツの教育的な価値に関するインパクト評価を試みて、それを広く社会に発信してほしい。大学でスポーツに打ち込むことで何が得られるのか。それを自分たちできちんと説明できて初めて「なるほど」と周りを納得させ、共感と支援の輪を広げていくこともできる。

学生アスリートを対象にリサーチをかけ、「こういう体験をした」「こういうインパクトがあった」「卒業後もこういうことができるようになった」ということをつまびらかにしていく。スポーツの優れた教育的価値を大学のようなアカデミックな機関が自ら進んで明らかにするのである。

そういったリサーチは、もしかしたら既にどこかで行われているのかもしれないが、そうであれば、わかりやすい形で広く社会に発信してほしい。

箱根駅伝で常勝軍団となった青山学院大学の駅伝の選手たちは、原晋監督のような選手の自立を促す指導を受けた後、どんな社会人になっているのか。世間の方だって知りたいはずである。「スポーツから人生を学びました」というような、ふわっとした印象論ではなく、いくつものパラメーターを設けて具体的にインパクトを計測する。

ユニホームの胸スポンサーに代表されるプロスポーツの広告価値も「(ビジネス的な)インパクト評価」がしっかりされたことで浸透していったと思われる。それと同じことである。

大学自らが進んで価値を再発掘し、社会に問うて、そのギャップを越えていかないと、大学スポーツの真の価値はいつまでたっても広がっていかないだろう。

 すぎはら・かいた 1996年東大院修了。コンサルティング会社を経て国際サッカー連盟(FIFA)運営の大学院を2005年に修了。06年からアジア・サッカー連盟(AFC)に勤めた後、14年から現職。FIFAの戦略立案に携わる。

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