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元山一証券社員・永野修身氏 失った自信、もう一度

平成って

「当時は『いつかバブルははじける』という漠然とした恐れはあった。だが『自分がババを引くことはない』と思い、強気で営業を続けた」

永野修身 マーキュリースタッフィング社長。山一証券のトップ営業マンだった。

日経平均終値は平成元年(1989年)末に史上最高値の3万8915円を記録した。ところが公定歩合の引き上げや不動産融資の総量規制をきっかけに株価は暴落。日本経済の転換点を山一証券の営業マンとして目撃した。

「自主廃業は寝耳に水だった。単身赴任先で早朝、上司から『ニュースが流れている』と聞いた。『会社が潰れた? あり得ない』。何かを考える気分にはなれず、ウイスキーをあおり続けた」

1897年創業の山一証券は法人営業の強さから「法人の山一」と呼ばれ、四大証券の一角を占めた。その名門にあって「山一のトップ営業マン」とメディアで紹介された。でも「学生時代は少林寺拳法に没頭するバリバリの硬派。口下手だから電話営業がとにかく苦手だった」。

「『基本は実直に。時には頭を使う』が私のやり方。飛行機嫌いの顧客がいれば早朝に自宅前でお守りを渡し、バブルで繁盛する料亭に狙いを定めて新規開拓した。今なら『ブラック企業』と呼ばれるだろうが休日返上で猛烈に働いた」

会社とともに人生がある、金融業界に限らずそんな生き方が当たり前だった。しかし、バブル崩壊後の株価急落は山一を揺さぶる。巨額の債務が生じ、一部の経営陣がその存在を隠蔽。簿外に移された債務は2千億円を超えた。

「私を含む多くの社員は過去の経営危機を救った『日銀特融』と呼ばれる無担保・無利子の支援を期待した。しかし『神風』は吹かず、大蔵省の判断で会社更生法適用は見送られた。戦後を支えた護送船団方式の終わりとともに、『山一に骨をうずめる』という私の志も絶たれた」

その後は外資系金融機関を経て人材サービス会社に転職。2003年4月からは金融業界向けの人材紹介会社を営む。

「若い世代のサラリーマンと接すると元気のなさが気になる。不況の中で育ったせいか『努力は報われない』と決めつけがちな印象を受ける」

日本経済は12年12月から景気回復が続く。一方、中国の台頭などで国際的な存在感は下がった。

「バブル崩壊で失った自信を取り戻すには、大リーグで『二刀流』に挑戦し、新人王に輝いた大谷翔平選手のようなスターが必要だ。常識を変える規格外の存在によって、かつて多くの人が抱いた『成長への期待感』が広がることを願う」

 ながの・おさみ 東京都生まれ。法政大卒業後の1982年、山一証券に入社。預かり資産約100億円の営業実績を誇った。同社の自主廃業後は外資系金融機関などを経て2003年に人材サービス会社「マーキュリースタッフィング」を起業、現在も社長を務める。

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