人喜ばせてこそ料理 料理人 林裕人さん(もっと関西)
私のかんさい

関西タイムライン
2019/2/19 11:30
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 ■テレビ番組などで奇抜な料理と巧みな話術で人気の料理人、林裕人さん(64)。料理の世界を志したのは、幼少時に患った病気がきっかけだった。

 はやし・ひろひと 1954年大阪市生まれ。辻学園日本調理師学校で料理を広く学ぶ。71年以降、料理の技術・知識研さんのため欧州諸国を訪問。同校の製菓・製パン教授を務めた。講演や講習会のほかメディアを通じて食に関する啓発活動を続けている。

はやし・ひろひと 1954年大阪市生まれ。辻学園日本調理師学校で料理を広く学ぶ。71年以降、料理の技術・知識研さんのため欧州諸国を訪問。同校の製菓・製パン教授を務めた。講演や講習会のほかメディアを通じて食に関する啓発活動を続けている。

大阪市旭区赤川で生まれ育った。幼稚園入園前、近所のうどん屋で食事をし、腸炎にかかり、完治まで約1年かかった。その間ほとんど物が食べられず、食べると出血した。食べたいものが食べられなかった影響で、食べ物に強い執着を持つようになった。

完治後、父はよく外食に連れて行ってくれた。母も食べ物にすごく気を使ってくれた。食べたいものを言えば何でも食卓に並んだ。食に関して僕はかなり甘やかされていたと思う。

母はよくテレビの料理番組を見て作っていた。僕が初めて作った料理も、小学3年のときテレビを見て作った酢豚だった。そんな環境で育ったからか、料理の世界に入ったのもごく必然のことだった。

 ■父はペンキ職人だった。「父のように一から苦労しないよう学校に行きなさい」と母の勧めで辻学園日本調理師学校に入った。

学校では日本料理をはじめ中国料理、西洋料理と一通り学んだ。でも日本料理をやる人は気難しそうで、中国料理はすごく大ざっぱに感じた。一方、西洋料理は帽子にネッカチーフ姿で格好良かった。西洋料理の道に進もうと決めた。

1970年の大阪万博の年、府内のホテルに研修に出た。でも上下関係の厳しさに反発。学校に戻り、助手になった。もともと料理を通じて人と関わるのが自分の本業と思っており、店を出す考えはなかった。

助手生活3年目のころ初めて教壇に立ち、「人に教えるには完璧にできるようにならなければダメだ」と思い知った。僕は包丁を持つのは左手だったが、右手に矯正もした。人に教えたり伝えたりすることは楽しく、探求心も深まった。

17歳で渡仏。数カ月滞在し、現地の大学で語学を習得。帰国後は助手の身分のままフランス料理を教えた。その後も洋菓子やフランス料理の技術や知識を磨くため欧州諸国を訪ねた。

 ■テレビ番組などの出演機会も多い。料理だけでなくトークの技術も磨く。

学校で教職をしていたとき、ケーキの全日本大会が大阪で開かれた。フランス語を話すドイツ人パティシエ教師を特集するテレビ番組で、僕はフランス語通訳としてスタジオに呼ばれた。番組のディレクターが別のバラエティー番組も担当しており、その番組に出演するきっかけになった。

講師として教壇に立ち、フランス料理を教える林裕人さん

講師として教壇に立ち、フランス料理を教える林裕人さん

料理を作り、教えることに加え「メディアを通じて伝える」のも自分の役割と感じるようになった。料理はおいしいだけではダメ。人を喜ばせ、楽しくさせることも重要な要素だ。

僕は番組で料理をしながらしゃべりもこなす。それは見ている人に自分で思いを伝えたいから。自分がしゃべって自分のペースで料理するのが信条だ。「料理の途中で笑いが必要なら、笑いも自分が取ってやる」という思いでしゃべりの技術も研さんしてきた。

 ■生まれも育ちも大阪。大阪を愛しているからこそ見える課題もある。

大阪人はよくケチと言われるが、実は「始末をよくする」ため。商人や料理人の世界の表現だが、「どういう思いで物事を始め、その結果、どういう形を作っていったか」にこだわる。始末とケチは違う。商人の間では、もうけたお金を人々のために使うことも「始末」と言う。こだわりがあってこそ人生は楽しいし、そこに責任感も生まれる。

大阪城の石垣は、大きな石だけでも、小さい石だけでもできない。大中小の石がビチッとはまってはじめて重厚な支えができる。

2025年には大阪で2度目の国際博覧会が開かれるが、「万博が来るから景気は良くなる」と楽観していてはダメだ。大阪には様々な人材や技術があるが、飛躍のためには、石垣のようにそれをしっかりとかみ合わせることが大切だ。

(聞き手は大阪社会部 松本勇慈)

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