知の探求 奈良墨の由縁 古梅園(もっと関西)
時の回廊

関西タイムライン
2019/2/13 11:30
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月ならで雲の上まですみのぼる これはいかなるゆえん成(なる)らん

上方の狂歌師、永田(鯛屋(たいや))貞柳(ていりゅう)の歌碑が奈良市の念聲(ねんしょう)寺に残っている。詠まれているのは、古梅園(同市)6代目で江戸中期の造墨家、松井元泰(げんたい)が特大の墨を御所に献上した慶事。「なら」と「奈良」、「墨」と「澄み」、「油煙」と「由縁」をかけた狂歌は評判となり、貞柳は「由縁斎」を名乗るようになった。

約300年来使い続けている墨の木型。右上から時計回りで「多賀城碑」「香象墨」「蘭奢待」。左側3点は寛政の改革を記念した「丸虎」(奈良市の古梅園)

約300年来使い続けている墨の木型。右上から時計回りで「多賀城碑」「香象墨」「蘭奢待」。左側3点は寛政の改革を記念した「丸虎」(奈良市の古梅園)

油煙とは油から採る煤(すす)のこと。墨は煤を膠(にかわ)で固めて作られる。古くから松を燃やして採る松煙(しょうえん)が使われてきたが、興福寺二諦坊(にたいぼう)で製造した油煙墨が奈良のまちに広まり、近世に産業として発展した。古梅園は現代風にいえば、巧みなブランド戦略で奈良墨を広め、今につながる格別の存在だ。

■御所に特大の墨

創業は1577年。6代元泰を中心とする1700年代前半に評価を高めた。きっかけは京都御所から依頼を受けたこと。元泰の父、元規(げんき)は儒学者、伊藤仁斎の門下生であり、最高の材料で作った墨に御所から「千歳(せんざい)松(まつ)」の名を賜った。

世間を驚かせたのが、狂歌のきっかけになった元泰製作の特大の墨。1715年の「大玄(たいげん)鴻寶(こうほう)」と「方壺(ほうこ)眞人(しんじん)」だ。円形と角形の大墨で、大きさは1尺4寸(約53センチ)、重さ20斤(約12キロ)。墨は大きくなるほど作るのが難しいが、これほどの大墨は本場中国にも記録がなかったといい、まさに一大チャレンジだった。

元泰は様々な製法や材料、型などを試行した。発色が良くても硯(すずり)のすり心地がいまひとつなのはなぜか。墨を固めるのに使う膠は中国と日本でどう違うのか。幕府に願い出て許可をもらい、長崎に出向いて清国人らに疑問をただす。記録からは職人としての探究心がうかがえる。

元泰とその子の元彙(げんい)がまとめた「古梅園墨譜」は、木型などから取った拓本集だ。御所や幕府に納めたもののほか、清の職人の手による木型で製作した墨、逆に材料を託して清で作ってもらった墨などが並ぶ。

古梅園は今も奈良町の一角で固形墨の製造を続けている

古梅園は今も奈良町の一角で固形墨の製造を続けている

■表面に話題の柄

当時の人々の耳目を集めた事柄もタイムリーに墨作りに取り入れた。織田信長らを魅了した香木を手のひらサイズに模した「蘭(らん)奢(じゃ)待(たい)」、真偽論争があった多賀城碑のミニチュア「東奥壺石文之圖(とうおうこせきぶんのず)」……。古梅園の竹住享営業部長は「深い知識を備えた元泰は、優れた商人でもあった」と話す。

元彙も父を継いで研究に励んだ。日本や中国の名墨を再現したほか、将軍徳川吉宗に献上されたゾウが死んだ後、幕府の依頼でその皮から膠をとった「香象(こうぞう)墨」を最終的に完成させた。墨の代名詞ともいわれる「紅花(こうか)墨」は300年来のヒット商品だ。

古梅園は現在も奈良町の一角で製造を続ける。古い町家が残る界隈(かいわい)でも重厚な店構えと広大な敷地はひときわ目を引く。1833年に53軒あった奈良の「墨屋仲間」だが、現在、奈良製墨組合に参加するのは9社。固形墨を製造するのはさらに少ないが、昨年、奈良墨が経済産業省の伝統的工芸品に指定されるなど新たな動きも出ている。

最近、元泰が子孫に書き残したとされる「玄々斎(げんげんさい)随筆」の翻刻が出版された。

製剤おろそかに欲をかまへて製出すれは(中略)家業衰ふは是天道の理とおもふへし

その一文は、ものづくりに関わる全ての人に今も重い戒めを投げ掛けている。

文 奈良支局長 岡田直子

写真 大岡敦

《交通・利用》近鉄奈良駅から徒歩6分、JR奈良駅から同10分。製造期間の11月から4月末までは、にぎり墨体験と合わせて工場見学ができる。要予約。
《読書》翻刻書「玄々斎随筆」(吉備人出版)は昨年11月、元岡山県立博物館副館長の竹林栄一さん主宰の「古文書を楽しむ会」が出版。現代語訳はないが解説を頼りに読み進められる。
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