関西 いまも医療の礎 大幸薬品社長 柴田高さん(もっと関西)
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2019/2/5 11:30
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■「ラッパのマークの正露丸」で知られる大幸薬品の社長、柴田高さん(62)の前職は外科医だ。同社の創業家出身ながら、医師を生涯の仕事にするつもりでいた。

 しばた・たかし 1956年大阪府生まれ。81年川崎医科大学卒業、大阪大学医学部第二外科に入局。外科医として複数の病院に勤めた。98年に大幸薬品取締役。副社長を経て2010年から現職。幼いころからスポーツや音楽、美術が得意だった。

しばた・たかし 1956年大阪府生まれ。81年川崎医科大学卒業、大阪大学医学部第二外科に入局。外科医として複数の病院に勤めた。98年に大幸薬品取締役。副社長を経て2010年から現職。幼いころからスポーツや音楽、美術が得意だった。

幼いころは漠然と「社長になりたい」と思っていたものの、家業を継ぐのは2人の兄だった。人生をかけられる仕事は何かと考え、人助けをして喜ばれる医師に引かれた。目標が定まったことで、得意でない勉強に猛然と取り組んだ。

大学を卒業して大阪大学医学部第二外科に入局し、大阪府立千里救命救急センター(現・大阪府済生会千里病院千里救命救急センター)の研修医として働き始めた。同センターは深刻な状態の患者を受けいれる「最後のとりで」。何人もの患者を同時に担当し、自宅に帰らない日が続いた。

阪大には日本中から優秀な医師が集まり、医療の歴史を変えようと研究に挑んでいる。採算性は度外視で芸術家肌の同僚ばかりだった。彼らを見ているうちに「社会に貢献する」という姿勢が染みついた。

■大幸薬品は正露丸を販売できなくなるリスクに直面した。

胃腸薬の承認基準が変わることになった。当時の正露丸は先人の経験をもとにつくられた伝統薬で、効能効果の裏付けがなかった。医師を辞めて大幸薬品に入社するつもりはまったくなかった。それでも家業の危機は心配で、夜も眠れないほどだった。

幸いにも阪大で薬理を学び、大手製薬会社と共同研究していたから、大幸薬品にどんなデータが必要か分かっていた。父に研究所を設立すべきだと訴え、論文をまとめられるよう様々なヒントを提供した。やがて正露丸の安全性と有効性を証明することができた。

外科医として多くの患者と向きあった

外科医として多くの患者と向きあった

「帰ってこい」。起業するため退職する次兄に呼ばれ、社長の長兄を支えることになった。もともと大幸薬品には正露丸以外の製品が必要だと感じていた。知人の経営する会社が開発していた二酸化塩素を使う消臭剤に目をつけた。

大幸薬品への入社前、勤めていた病院の解剖室に消臭剤を置いてみると、1週間ほどで腐敗臭が消えた。1カ月後、担当者に電話すると「浮遊菌が半分以下に減った」と伝えられた。除菌効果もあったことに驚いた。これが除菌消臭剤「クレベリン」として当社の第2の柱になる。

2010年に社長職を引き継いだ。病院経営に携わった経験が生きた。組織をまとめてリスクを管理するなど、企業経営と通じる部分はいくつもある。月曜日の朝には社内を見てまわる「月曜ラウンド」を実施してきた。医師で例えるなら回診のようなもの。うつむいている社員はいないか、顔色の悪い社員はいないかを確認する。彼らに異変があれば、組織に何らかの問題が発生しているはずだ。

■主要拠点を東京都に移す製薬会社があるなか、関西には大きなビジネスチャンスがあると指摘する。

大阪市・中之島で計画されている「未来医療国際拠点」に当社も参画する。関西の産学がライバル関係を超えて協力する。優れた人材の流出が関西の課題といえる。同拠点で様々なことができるようになれば、国内外から人材や知見が集まるだろう。彼らが自己実現できる基盤を整えられるかが重要になる。緒方洪庵が適塾を開いて以降、関西は日本の医療の礎となってきた。いまもその役割は変わらない。

25年に大阪市で国際博覧会(大阪・関西万博)が開かれる。会場の空調にクレベリンの除菌システムを使うことが夢であり目標だ。人類は医薬品の効きにくい耐性菌と長く闘ってきた。エビデンス(証拠)を積みあげて発表したい。

1970年の前回の万博では、パビリオンを見て「万博が終わったらどうなるのだろう」と子供ながらに思っていた。建物がなくなったあとも「絆」「世界との出合い」という財産は残った。次回の万博でも人々が参加しやすい枠組みが必要だろう。

(聞き手は大阪経済部 宮住達朗)

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