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「五輪楽しかった」 千葉すずさん、顔上げ続けた理由

千葉すず(3)

千葉すずは引退後、地方の小さなスイミングクラブにも足を伸ばして水泳を教えてきた(2018年12月、大阪府堺市の市立健康福祉プラザ)

競泳自由形で2度の五輪に出場した千葉すず(43)の今を伝える連載。3回目は、引退後にコツコツと続けてきた水泳教室や講演会で、伝えようとしていることに迫る。それは現役時代にメダルの期待を背負わされた千葉が、米国での練習を通じて学んだ姿勢でもある。(前回の記事は「『五輪落選、理由知りたい』 千葉すずさんが開けた扉」

◇   ◇   ◇

1996年アトランタ五輪でメダルを獲得できずに終わった後、千葉すずは「オリンピックは楽しかった」「日本人はメダルばかり評価する」と発言しすさまじいバッシングを受けた。

しかし23年が経過した今、トップアスリートたちが五輪や世界選手権といった大舞台で「楽しむ」と口にするたび、「自然体だ」「競技の本質を知っている」と、メディアにも、ファンにも、もはや当たり前のように好意的に捉えられ、称賛さえされる。

発言の趣旨は全く同じだったあの時、メディアや日本のスポーツ界を取り巻く環境が彼女に付いて行けなかったのだろうか。それとも彼女が特別に先端を走っていたのか。今回の取材で、20年も前にリスクと引き換えに問題提起をした若き女子アスリートが、選手は五輪とどう向き合うべきか、そして五輪報道とは何なのか、この複雑なテーマと向き合い、人々に語り続けている姿を知った。

決勝出られたのに「残念でしたね」

バルセロナ五輪の直前、競技会場となるプールで初練習する千葉(手前から3人目、1992年7月)

メディアへの違和感は1991年、中学3年(近大付属中)、オーストラリア・パースで行われた世界選手権400メートル自由形で銅メダルを獲得した際に抱いたという。世界とは差が開いていた自由形に期待の大型スイマーが誕生し、そのチャーミングな笑顔にも引かれ取材陣が殺到した。通学路にはカメラマンが待機し、プールに入れば、そこでも知らないうちにテレビカメラが回る。

「自分の人生に、全く知らない人たちが突然、土足でずかずかと踏み込んで来る。そんな生活へと一変してしまったようでした」

仙台から中学入学と同時に単身で名門、大阪の「イトマンスイミングスクール」へ留学したため両親とは離れていた。現在のように学校、所属クラブに広報体制が敷かれてはおらず、マネジャーも、マネジメント会社もまれな時代だ。土足で踏み込まれても防御する手段がなかった。

同じ91年、カナダのエドモントンで行われたパンパシフィック選手権で200メートル、400メートル自由形2種目で銅メダルを獲得すると、「いい話がある……」と大人が近寄ってきた。

講演会の中で、当時を振り返ってこんな話を明かした。

「中3でこう思いました。色々な人がいい顔をして近寄ってくる。このまま他人に流されたらあかん、と。自分の意見を持って、流されず、引っ張られずに水泳にちゃんと打ち込もう、そう決意したんです」

今でも輝きを放つ強い信念は、15歳から身に付けなくてはならなかった「鎧」(よろい)だったのかもしれない。

アトランタ五輪の400メートル自由形で決勝進出を逃した千葉(96年7月、予選レースの後)=共同

高校2年で夢をかなえた92年、バルセロナ五輪では違和感の中身が分かった。自己ベストを更新し決勝に進む。「流されてはいけない」と自分に誓った信念通り、バルセロナの「モンジュイックの丘」にある屋外プールで、高い目標を達成した。充実感にあふれプールから笑顔で上がり取材ゾーンに歩くと、最初のインタビューにショックを受けた。

「いやー、残念でしたね、そう言われました。決勝は端っこのコースではありましたが、私には満足感しかなかったので不思議に思っていると、次のリポーターには、メダルに手が届きませんでしたね、と聞かれる。でも私、メダルを取りたいと言っていませんでしたよ、と。その時感じたマスコミと自分、世間と自分との温度差に葛藤が生まれ、悪戦苦闘が始まったんだと思います」

同じバルセロナでは14歳の岩崎恭子が200メートル平泳ぎで金メダルを獲得。メディアの関心は岩崎へと一気に移る。「残念でしたね」「メダルが取れず惜しかったですね」と、日々言われるうちに、自分の努力や夢まで否定されるような思いがした。

千葉に限らず、多くの選手が疑問を口にする同じ場面がある。帰国の際、機内で「メダリストは首からメダルを下げて準備してください」と担当者から声がかかり、「まずは、メダリストから、その後他の選手が降りてください」と指示される。

「メダルが取れなかった反省をしながら降ろされるようで、喪失感でいっぱいでした」と、選手たちの思いを千葉は代弁する。メダリストとそうでない選手。真二つに区分される扱い方は、メディアによる「五輪格差」とも呼べる。この事態に選手とメディアには深い溝が生まれ、今も溝は埋まっていない。深まったのかもしれない。

米国は厳しい練習も自分のため

96年アトランタ五輪を前に進路を決める際、アメリカへの留学を決断する。今のように、その競技の最高峰でトレーニングし海外を転戦するなど例がなく「絶対に失敗する」「リスクが大きい」などと、関係者からも賛同は得られなかった。米国で言葉の壁に苦しむ一方、日本の根性論、コーチとの上下関係とは異なるスポーツの姿を知る。

4時間泳ぎ続けるような日本の練習と違い、米国では1時間半で全て終わる。オン・オフの切り替えが明確で、自立した選手として扱われる。厳しい練習は自分のためだからこそ、心から楽しもうと思えるようになった。

「楽しむ」は決して気軽に口にした言葉ではなく、米国留学中、言葉の壁に苦しみ、それを打破し、彼らがなぜ大舞台で結果を出せるのかを間近で懸命に学んだ時、ようやく分かった答えのひとつでもあった。

アトランタ五輪では競泳女子の主将を任され、若い選手に自分がバルセロナで味わったような思いはさせたくない、プレッシャーも楽しんで、とリードした。女子チームはメダルを獲得できなかったが「一切手は抜いていないし、楽しかった」と顔を上げた。

すると税金泥棒、親の顔がみたい、メダルなしの反省がない。そんな批判を、1人で直接浴びる結果となってしまった。

「今で言う大炎上ですよね。私も、テレビで言わなくたっていいのに、じゃあ、税金返しましょうか、なんてけんか腰でさらに大炎上。今のようなSNS社会だったら、どんな騒動になっていたんでしょうね」

千葉は他人事のように笑った。

引退後、スポンサーとは無縁のイベントでも、地方の小さなスイミングクラブで、トップ選手相手ではなくても水泳を教え、全国を回って講演を続けて来た理由は、メダルや周囲の評価ではなく、「楽しむ」理由は自分自身で探せると伝えたかったからだ。

二十数年前、メダル偏重に敢然と異を唱えた千葉に対し、五輪報道はどう変わったのだろうか。

=敬称略、次週に続く

(スポーツライター 増島みどり)

千葉すず
 1975年8月、横浜市出身(実家は仙台)。中学生で五輪を目指し、強豪の大阪イトマンスイミングスクールへ単身留学した。90年の日本選手権で自由形3冠。91年世界選手権で400m銅メダルを獲得した。世界的に選手層が厚い自由形で、日本女子のメダル獲得は五輪・世界選手権を通じて初の快挙だった。92年バルセロナ五輪(200m自由形6位、400m同8位、メドレーリレー7位)と、96年アトランタ五輪(200m自由形10位、800mフリーリレー4位)に出場。2000年シドニー五輪に挑戦するも日本選手権で優勝しながら落選した。同年10月の現役引退後は、アテネ五輪200mバタフライ銀メダリストの夫・山本貴司氏(40=近畿大水上競技部監督)と2男2女を育てながら、島根県浜田市三隅町の「ユネスコ無形文化遺産石州半紙PR大使」を務めるほか、講演活動や障がい者と健常者を一緒に指導する独自の水泳教室も行う。
増島みどり
 1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師

アスリートの引退後をたどる「未完のレース」では、柔道の篠原信一さんも取り上げています。併せてお読みください。

(1)誤審背負い20年 柔道の篠原さん、なぜ安曇野暮らし

(2)心技体「心が足りなかった」 篠原さん、五輪決勝の悔恨

(3)「もう一本」の心届かず 篠原さん、五輪監督で金ゼロ

(4)柔道離れタレントに 篠原さんが知った銀メダルの価値

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