遊郭建築 様式のカオス 鯛よし百番(もっと関西)
時の回廊

関西タイムライン
2019/1/30 11:30
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大正時代、遊郭でにぎわった大阪市の飛田新地。現在は100軒を超す間口の狭い「料亭」が並ぶ飲食街のはずれに、瓦ぶき屋根が重厚な趣を醸し出す堂々とした建物が現れる。玄関横の壁に並ぶ出格子が江戸時代の遊郭の貸座敷を連想させる。老舗料亭の「鯛(たい)よし百番」だ。

(上から時計回りに)応接間、2階の会食部屋「由良の間」、「陽明門」、1階の大宴会場「桃山殿」

(上から時計回りに)応接間、2階の会食部屋「由良の間」、「陽明門」、1階の大宴会場「桃山殿」

■戦禍を免れ現存

飛田遊郭が開業し、2018年で100年。かつて遊郭内の料亭だった鯛よし百番は和食店としての顔のほかに、遊郭建築を今に残す数少ない建造物として知られる。

実態は謎だらけだ。玄関をくぐると、左手に松に休む白タカが印象的な絵が目に入る。真偽は定かでないが、遊女が顔見せした場所らしい。応接間は日光東照宮を模した「陽明門」だ。

18ほどある会食部屋も個性的だ。1階の大宴会場は派手な装飾をこらした「桃山殿」。「三条大橋」と書かれた階段を上ると、2階には回廊に沿って東海道五十三次など物語性のある小部屋が並ぶ。カップルに人気の「喜多八の間」は、席が船の縁をあしらって一段高くなっている。戸を開けると、廊下に描かれた富士山を船上からのぞむような気分を味わえる。

豊臣の家紋のある今は使わない西玄関は花魁(おいらん)が出入りしたとの言い伝えもある。「由良の間」「オランダの間」「紫式部の間」など一つの建物に何でも詰め込み、時代が交錯する。「これが遊郭の世界というものか」。遊び心がちりばめられた空間で来客は往時に思いをはせながら杯を傾ける。

実は鯛よし百番の建物ができた時期、最初の屋号、所有者などの詳細は不明だ。

日が暮れるとちょうちんに灯がともり独特の雰囲気を醸す

日が暮れるとちょうちんに灯がともり独特の雰囲気を醸す

明治45年(1912年)、花街だった難波新地の大火後、飛田が代替地と認められ、大正7年(18年)に飛田遊郭が開業した。鯛よし百番の建物が竣工した年次については記録がないが、雑誌の記述などから、飛田遊郭の開業より少し遅れた大正10年(21年)ごろから昭和2~3年ごろと推測される。第2次世界大戦で飛田の多くの料亭が消失する中、百番の建物は戦禍を免れた。「これだけ大きな規模の料亭はここだけが残った」(運営会社「鯛よし」の三宅一守管理部長)

■部屋別にテーマ

戦後になってから建物の以前のオーナーは、遊郭がこのまま続かないことを見越し、京都の絵師や大工棟梁(とうりょう)を動員し何年もかけて内装を中心に大改装したとされる。売春防止法施行で昭和33年(58年)に飛田遊郭が廃止。オーナーは自身が収集した桃山風美術品を展示する観光施設や料亭として建物を活用した。

「桃山風の派手な装飾、部屋ごとに数寄屋など様式を変えてテーマ性を持たせる内装の趣向は戦後の大改装で生まれた部分が多いのではないか」。大阪府立大学大学院経済学研究科の橋爪紳也教授(建築学)は指摘する。若い頃から百番の建築に興味を持って調査を続け、文化財的価値を訴えてきた百番ファンでもある。「モダンと称された飛田遊郭にあって、江戸期のお茶屋建築を連想させる外観。内装は戦後復興期、桃山時代を愛したオーナーの美術収集品展示の場にする意向を反映し、両者が融合したのが今の百番」と橋爪教授。「いろいろな時代が重なり合って現在に至っているのが面白い」と話す。

鯛よし百番は2000年、建造物の価値が認められ国の登録有形文化財に指定された。一方で宴会で使う部屋は傷みが激しい。謎多き建物の解明を進めてその姿を記録にとどめ、保存に動く時期にきている。

文 野間清尚

写真 善家浩二

《交通・ガイド》地下鉄谷町線阿倍野駅、同御堂筋線動物園前駅から徒歩約10分。飛田新地南、阪神高速14号松原線の高架下付近。木造2階建ての建物で黒字で「百番」と大書された看板が目印。ちゃんこ鍋、寄せ鍋、すき焼きなど鍋料理や、会席料理を主体とする。すべて個室で2~35人程度、前日までの完全予約制。営業は午後5時から。月曜日定休。
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