氏郷 会津でしのぶ故郷 若松の森跡(もっと関西)
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関西タイムライン
2019/1/23 11:30
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鈴鹿山系に連なる標高1110メートルの綿向山(わたむきやま)。545年、巨大イノシシの足跡を追った地元豪族が山上で神に遭遇、ご託宣で祠(ほこら)を建てたのが滋賀県日野町にある馬見岡綿向(うまみおかわたむき)神社の始まりという。同神社は12年に1度、亥年(いどし)の年明けに限り、古くから伝わる焼き印を使った絵馬を作る。今年は前回2007年の倍の3千枚を製作した。

■商業発展に尽力

蒲生氏郷ゆかりの若松の森跡。「会津若松」の地名の由来になった(滋賀県日野町)

蒲生氏郷ゆかりの若松の森跡。「会津若松」の地名の由来になった(滋賀県日野町)

同神社は江戸時代に全国に名を馳(は)せた「近江日野商人」が出世開運の神として崇敬したことでも知られる。その日野商人を育んだのは鎌倉時代から安土桃山時代にかけ、この地を治めた蒲生(がもう)氏。中でも戦国武将として名高い蒲生氏郷(うじさと)は伊勢松坂(明治維新後に松阪に改称)や会津の大名に取り立てられるが、日野商人たちは氏郷を慕ってその跡を追い、新たな領地の商工業育成に貢献した。

氏郷の資質を最初に見いだしたのは織田信長である。12歳で織田家の人質となった氏郷と対面した信長は「あの者の眼光、只(ただ)者にあらず」と聡明な立ち居振る舞いを気に入り、身近に侍(はべ)らせた。翌年には自ら烏帽子(えぼし)親となって元服させ、さらに自分の娘で美貌の評判が高かった冬姫を嫁がせた。

伊勢松坂や会津黒川の城主となった蒲生氏郷の銅像(滋賀県日野町)

伊勢松坂や会津黒川の城主となった蒲生氏郷の銅像(滋賀県日野町)

1582年、明智光秀の謀反で信長が自刃する本能寺の変が起きる。その光秀を討ち、天下人となった羽柴(豊臣)秀吉も氏郷を重用。本能寺の変から2年後、氏郷は28歳で伊勢松坂12万石の大名になる。それまで戦場での勇敢さが注目された氏郷は国主として民生の才能も発揮していく。

四五百(よいほ)の森に新城を築き、楽市楽座にして故郷から来た日野商人を住まわせ商工業を奨励。同時に伊勢街道のコースを変え、伊勢神宮の参拝客を呼び込んだ。街は大変なにぎわいとなり、ここから後の三井(越後屋)、小津(伊勢屋)、長谷川(丹波屋)といった「伊勢商人」が輩出する。

豊臣政権の奥州平定に伴い、氏郷が会津に国替えとなるのは1590年。この5年後に氏郷は早世するのだが、その短い期間に漆塗り食器「日野椀(わん)」の技術移転を促進。氏郷は日野から漆塗りの職人を呼び寄せ、現在「会津漆器」として知られる工芸品の製造基盤を築いた。

氏郷の会津入府当時、国主の居城は黒川城と呼ばれていた。氏郷はこれを7層の天守閣を備える壮大な城へ改築。地名も会津黒川から会津若松へ改称した。新たな名称は日野の馬見岡綿向神社参道を覆っていた「若松の森」に由来。氏郷が生まれ育った日野城から同神社までの距離はわずか1キロ。「会津旧事雑考」は当時の氏郷の心境をこう記す。「江州蒲生郡に若松の森あり。氏郷恋ひて以(もっ)て名となすなり」

■誕生祝う大絵馬

同神社の宮司である社信之氏は「『若松の森』は明和年間(1764~72年)まで存在したが、その後松が枯れてしまい、現在はその名残がうかがえるだけ」と説明する。同神社には日野の豪商、中井家が1812年に奉納した縦2メートル、横4.2メートルの「祭礼渡御図大絵馬」があり、そこには氏郷の誕生を祝い1557年に特に盛大に行われた祭礼渡御(神霊の送迎を伴う神事)の様子が描かれている。

日野町内にある1919年建造の氏郷の銅像は太平洋戦争中に資源供給されたが88年に再建。氏郷は遠く会津の地から日野の松に思いを寄せたが、同様に故郷の人々に深く愛された。

文 編集委員 安西巧

写真 松浦弘昌

蒲生氏郷 1556年、近江日野城で誕生。武勇に秀で教養も深く、茶聖・千利休の高弟7人を指す「利休七哲」の筆頭とされた。キリシタン大名の高山右近の勧めで洗礼を受ける。受洗名レオン(またはレオ)。秀吉は会津92万石の大名として厚遇したが、黒田官兵衛と同様に武将としての才能を恐れ、遠隔地に転封したともいわれる。95年、京都伏見で死去。享年40。

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