京都にプロ野球球団があった? 防火・照明に壁 根付かず(もっと関西)
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関西タイムライン
2019/1/17 11:30
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2月1日のプロ野球キャンプインまで約2週間。それぞれ兵庫と大阪が本拠の阪神とオリックスはBクラスからの反攻を図るが、かつて京都に足場を固めようとした球団があったことを知る人は少ないだろう。球団と京都の関係はどのように生まれ、消えたのか。

京都市北区にある立命館大学衣笠キャンパス。この一角にかつて「立命館衣笠球場」という野球場があった。その痕跡は、周辺の電信柱に据え付けられた「衣笠球場」のプレートに認められる。この球場で戦後、活動していたのが「大陽(たいよう)ロビンス」だ。

京都の球場で思い浮かぶのは、現在「わかさスタジアム京都」の呼称で知られる西京極球場(京都市右京区)。だが、当時はGHQ(連合国軍総司令部)に接収されて使えず、1948年竣工の衣笠球場が使われることに。立命館史資料センター調査研究員の久保田謙次さんは「大学が広く開放された教育施設であることを示す性格があったのだろう」と説明する。

ロビンスのオーナーを務めたのは繊維会社、田村駒の社長の2代目田村駒治郎だが、同社の本社は大阪。ならばロビンスも大阪を拠点にするのが自然だが、なぜ京都だったのか。

謎解きの手掛かりが戦前の日本職業野球連盟の規約だ。連盟加入の条件として球団が拠点にする都市の人口を20万人以上とし、さらに「東京市と大阪市は4球団以内」「名古屋市、横浜市、神戸市、京都市は2球団以内」と規定。京都などに球団を置く前提ともとれる項目について、京都府立京都学・歴彩館資料課の若林正博さんは「六大都市が他の都市とは別格に扱われていた」と分析する。

47年12月の球団代表者会議で「南海=大阪、大陽=京都」などとするフランチャイズ案が報告されると、48年12月の同会議では「大陽ロビンスは今年より京都をフランチャイズと定めた」(当時の日本野球連盟機関紙「週刊日本野球」)。

ただ、各球団が保護地域を有する現在の仕組みはまだなく、49年に41試合あった衣笠球場でのロビンスの試合は、50年は4試合のみと頻度はまちまち。当時の「フランチャイズ」は形式的なものにすぎなかった。

現在に通じるフランチャイズ制の創設は52年。映画会社と提携し「松竹ロビンス」となっていた球団は衣笠球場を本拠地に定めた、との記載が当時の一部資料にある。だが、これも実態を伴っておらず、衣笠での開催はゼロ。立命館史資料センターの久保田さんに聞くと「既にプロへの開放は停止していた」という。

51年8月、中日スタヂアム(現ナゴヤ球場)での試合中に木造スタンドから出火し全焼、死傷者が出る惨事となった。これを受け「衣笠の一般への貸し出しは難しい」という結論が出て、同月限りでプロの試合が行われることはなくなった。

京都での足場を失ったロビンスは大阪球場を多く使うように。大洋との合併で「洋松ロビンス」となった53年と54年は接収が解除されていた西京極で大阪に迫る数の主催試合を開催したが、この事実はかえって本拠地がどこかを分かりにくくした。54年12月に松竹が撤退し「大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)」となった球団は神奈川へ去る。47年に誕生したロビンスは名実ともに本拠といえる地が明確でないまま8シーズンで消滅した。

ロビンスと京都の関係を研究してきた京都学・歴彩館の若林さんは、京都にプロ球団が根付かなかった理由にハード面の不備を挙げる。ロビンスが大阪球場に軸足を移したのは「照明灯の設置でナイターが開催できるようになったことが大きい」。50年の後楽園など各球場で照明灯が整備されていった中、京都で初めて西京極に設置されたのは65年。もはや「どこかの球団を引っ張ってこられる状況ではなかった」。

球団の母体が京都の企業でなかったことも影響したとみる。「六大都市のアドバンテージで球団を割り当てられたので、引き留めねばというエネルギーが広がらなかったのではないか」

わかさスタジアムに名を変えた西京極球場は今、女子プロ野球の拠点になっている。カクテル光線に照らされた選手にロビンスの面々を重ねて見るオールドファンもいるかもしれない。

(大阪・運動担当 合六謙二)

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