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北島康介さん、平井コーチを引き付けた目力
経営者として五輪に挑む(3)

2019/1/8 6:30
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 1996年夏、初めて東京スイミングセンター(SC、豊島区)の選抜チーム入り。記録は平凡で注目されていないにもかかわらず、中学2年生の北島康介さんの強い目力が、「目標への食いつき方が違う」と平井伯昌コーチ(現日本代表監督)を引き付けた。

ちょうどへたれていた時期です。故障して、東京都の強化合宿メンバーに選ばれるか否かといった状態だったから、平井先生の言葉は響きました。

強気でビシビシ話す印象があるかもしれませんが、実際の先生は穏やかです。頭ごなしに「こうしろ」と言われたことはない。「こうしたら速くなると思うけれど、どう?」って、必ず意見を聞いてくる。戦術的な面も教えてくれたし、プール外では過度に干渉せず僕がストレス発散できる場所も作ってくれる。「頭がいい人だな」と思いました。厳しい練習の理由も納得できましたね。

シドニー五輪からアテネ五輪までの「4年間は人生で最も濃かった」と北島さん(2002年9月)

シドニー五輪からアテネ五輪までの「4年間は人生で最も濃かった」と北島さん(2002年9月)

試合でも「前半を日本記録並みに泳ごう」など具体的な課題をくれる。調子がよくない時は泳ぐ前から「こういう状態だから、これくらいのタイムと思うよ」と正直に説明してくれた。その通りになるから信頼は増すし、目標をクリアするたびに自信がつく。その辺は平井先生のかじ取りがうまいんですが、中学生の僕は、「俺すげ~」ですよ。勝負強いとよく言われるけれど秘訣はない。こうした小さな成功体験の積み重ねだけです。

 平井コーチについて1年後、中学生日本一に。高校3年の2000年シドニー五輪100メートル平泳ぎで4位。全種目通じて日本代表男子の最高順位だった。

シドニーは「行っちゃったぜ」という感じでした。メダルをとれるなんて、これっぽっちも思ってない。今、冷静に分析しても4位が精いっぱい。2種目目の200メートルは「準決勝(予選上位16人)はいけるだろう」と泳いだら17位。気の緩みの恐ろしさを身をもって知りました。

シドニーの次のアテネ五輪までの練習は、当時の記事を見れば、ほぼ全容が分かります。僕の故障情報を含め、ライバルをどう分析しているかなど、先生はメディアに隠さなかった。「先生、また好きなように話してるな~」と思ったけれど、話の内容に疑問はなかった。先生は正直です。指導者と選手が駆け引きをするような関係はダメですよ。

先生は僕を強くする方法を考え、その過程を楽しんでいたと思う。僕の仕事は結果を出すことと思っていた。先生の提示する練習をこなせば強くなる自覚があったし、自分の目指す場所も高くなっていた。僕は自信を持ってスタート台にあがれば最高のパフォーマンスができると信じていた。

アテネまでの4年間は人生で最も濃かったと言い切れる。自分に妥協しなかったし、後ろを振り返らなかった。アテネ直前、ライバルが世界記録を連発したんです。その時、僕は膝の違和感で思った練習ができなかった。それでも、「最後は自分が勝つ」という気持ちにだけは隙を作らなかった。ネガティブな感情は一度出ると、膨らむ一方なんですよ。

なぜできたって? 五輪で勝ちたかったから。それだけです。

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