2019年8月26日(月)

家康拠点に秀吉方が築城か 天守や櫓、静岡巡り攻防

2019/1/4 17:00
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徳川家康の拠点だった駿府城(静岡市)と浜松城(浜松市)の城跡で2018年、未確認だった天守や、櫓(やぐら)の存在を示す遺構が見つかり、豊臣秀吉が全国統一後に配下の武将を送り込み、築いたものだったと判明した。秀吉の「威光」を強調、家康をけん制するためだったとみられ、2人の天下人が静岡を巡り繰り広げた攻防に注目が集まっている。

金箔瓦や石垣が発見された駿府城跡の発掘調査現場(静岡市)=共同

駿河や遠江など東海地方を治めていた家康は1586年に浜松から駿府に移り、1590年、秀吉の命を受け江戸に領地替えとなった。秀吉はその直後、駿府と浜松に重臣の中村一氏と堀尾吉晴をそれぞれ配した。

静岡市などによると、豊臣方の統治期間に駿府で天守が築かれたことを示す記録はないが、市の発掘調査で18年6~8月、金箔瓦や南北約37メートル、東西約33メートルにわたる石垣が新たに見つかった。

専門家が詳しく鑑定、当時金箔瓦の使用は秀吉に限られていたほか石垣の積み方などから、豊臣方が築いた城の遺構と確認された。

浜松城跡の発掘調査でも18年8月、新たに櫓の基礎部分や瓦が発見され、家康の後に豊臣方が櫓を築いていた可能性が高いことが分かった。

戦国史が専門の小和田哲男静岡大名誉教授は「上方と江戸を結ぶ東海道筋に秀吉が重臣を配置したのは家康を警戒したからで、豪壮な天守や櫓を築きけん制する狙いがあった」と分析する。

関ケ原の戦いなどを経て両城は再び徳川方の手に移った。豊臣方の駿府城は破壊されたとみられ、家康が1610年に新たな駿府城を完成させたが、1635年に焼失。その後天守が再建されることはなかった。

浜松城には代々譜代大名が入った。江戸時代の絵図には天守や櫓が描かれておらず、徳川方が豊臣方の建築物を破壊した可能性がある。〔共同〕

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