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神田用一氏、先物復活を訴え続けた
市場経済研究所代表 鍋島高明

2019/1/12 5:30
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神田用一は新聞記者を志して埼玉県秩父から上京する。まず、給仕として新聞社に入ろうとしたが失敗して証券界に入った。そして30余年、辛苦の末に東京昭和証券社長になる。緒方勝次著「人生と株式道」には神田の横顔がこう描かれている。

「神田の性格は温和にして一面、闘争心がある。すなわち平凡無為のようでチャンスに乗ずれば飛躍する。しかし根は至って手堅く、時間の観念が強く約束を守り、履行することは習性であると思われる。若い時代には相当の辛酸をなめている。従って人心の機微をつかんでいる」

新聞記者の夢破れて証券会社に入るのは大正時代半ば。折からの欧州大戦景気で兜町は大にぎわい、「新聞記者になるより株の世界に入ってよかった」と思う瞬間もあったに違いない。だが、相場の世界は一寸先が闇、仲買人の平均寿命は3年半といわれ、浮沈の激しさに神経をすり減らす日々だった。神田が入社したのは千葉出身の鈴木隆が経営する株式仲買店。鈴木は東京府青山師範学校(のちの東京学芸大)の出身で小学校教師から兜町入りした変わり種で後に政友会の代議士(5期)になり、金庫番と称される人物。

神田は昼間は一生懸命商売や相場の極意を覚え、夜は学校に通った。苦労をしたが、暗いところはない。神田の明るい性格は、苦闘の中からつかみ取った自信の表れでもある。

昭和23年、43歳で独立し、東京昭和証券の社長に就任するが、運送業で成功した弟の援助が大きかったといわれる。同時に鈴木隆商店時代からの縁で野村証券も支援してくれた。

「店の方針は彼の性格を反映して堅実一点張りである。大手らしい派手な商いはしないが、手堅い商いをやっている。最近の不況にも何の心配もない経営を続けられるのは結局、彼の方針があったからだ」(週間経済新聞社出版部著「財人素描」)

戦後の兜町で地場証券はいくつかのグループに分かれて切磋琢磨(せっさたくま)しあっていた。鈴木由郎(山吉証券)の二十日会、ヤマタネを盟主とする木曜会、小田周太郎(小田証券)の東会、鈴木威(偕成証券)の銀星会、土屋陽三郎(日東証券)、長尾貫一(丸三証券)らの三和会、坂薫(八千代証券)の五日会などがあった。神田は五日会に属し、福山友三郎(福山証券)、井出民蔵(丸和証券)らが仲間だった。

神田は戦後の証券市場が四大証券に振り回され中小証券が苦戦を強いられている点に着目し、そのカベを突き破るためには定期取引(清算、先物)の復活を強硬に主張した。

「株が高くなって、商いが増えても、中小証券はそれほどうるおうところは少ない。その意味から中小証券が立ち直るにはどうしても清算取引をやってもらいたいということになる。神田はこの方の急先鋒(せんぽう)である。この点、彼は徹底している。業界を救うものは、清算取引の再開以外にない、というのが彼の信念である」(同)

神田は主務省に対しても、四大証券に向かってもひるまず清算復活を訴えた。戦前、清算取引で大きな成果を上げた実績があるから、そういわせるのだろう。

=敬称略

信条
・中小証券を不振から脱却させるのは清算取引の復活
・派手さはないが手堅い(週間経済新聞社出版部)

( かんだ よういち 1905-1984 )
 明治38年埼玉県秩父で生まれ、小学校を卒業すると、すぐ東京に出る。兜町の中堅株式仲買、鈴木隆商店に少年店員として入る。昭和23年東京昭和証券を創立、社長に就任。当時の兜町ではいくつかのグループが競い合っていたが、坂薫元東証理事長の主宰する五日会に所属。同31年から1年半東京証券取引所理事を務めた。(写真は「東京証券取引所10年史」より)

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