一揆の義民 そっと慰霊 平地地蔵(もっと関西)
時の回廊

2018/12/26 11:30
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京都府京丹後市の人目をしのぶような峠の一角に、冬の間、土地の人々が蓑(みの)と頭巾を着せる地蔵がある。「平地地蔵」といい、高さ5メートル強。わざわざ特製の防寒具を用意するほどの手厚い習俗が伝わるのは、一揆を主導した義民への思いが背景にあるからという。

平地地蔵は冬の間、蓑と頭巾を着せられる

平地地蔵は冬の間、蓑と頭巾を着せられる

11月23日。前日来の雨が上がり、一時的に虹まで見えたのもつかの間。晩秋の丹後地方特有の天気らしく、再び雨が降りだした。あらかじめ平地地蔵の周囲は掃き清められている。

朝8時。常林寺の西村泰丈住職(69)が般若心経を読み上げると、世話役の男性5人は慣れた様子でかいがいしく蓑と頭巾を着せ始めた。見上げるような大きさなので、蓑と頭巾も特大のサイズだ。手分けして羽織らせるが、はしごや竹ざおが欠かせない。雨にぬれてやや重い。それでも30~40分で装着は終わった。

■江戸後期に蜂起

蓑と頭巾の材料となる稲わらはもち米。コンバインで収穫すると丈が短くなるため、根本から手作業で刈る。約30年間世話役を務める村尾明さん(71)によると「手がかかって敬遠されがちなので毎年当番を割り当てて栽培し、わらの乾燥までしている」という。

江戸後期の1822年、12月13日夜。農民の吉田新兵衛と義理の弟・為治郎が周到に計画した農民蜂起は、呼応する村が続出。2日後には宮津藩のほぼ全域に広がった。一揆勢は宮津城下に押し寄せ、5項目を要求。余勢を駆って53件の大庄屋のほか、貧農に高利貸しをしていた縮緬(ちりめん)問屋などが打ち壊された。

人目をしのぶような峠道の一角にある高さ5メートル強の平地地蔵

人目をしのぶような峠道の一角にある高さ5メートル強の平地地蔵

一連の経緯は歴史学者だった池田敬正氏が京都大在学中(1953年)、雑誌「歴史評論」に寄稿した「文政五年宮津藩大一揆物語」に詳しい。一揆の前年、宮津藩は1人あたり日銭3文を徴収する人頭税を導入。これが以前からの重税に輪をかけて、領民を反抗に踏み切らせる引き金となった。

一揆勢が藩にのませた要求には、召し捕られた者を釈放し、徒党の詮議(連帯者の割り出し)をしない、という項目もあったが、藩は翌年、執拗に調査。新兵衛・為治郎はついに捉えられ、処刑されてしまう。

■墓建立も許さず

「一揆の詳細は公的記録に残りにくい」と常林寺の西村住職はいう。寺以外に文献や関連資料が多く伝わっていたが、事実関係の細部に異同があるらしい。そもそも藩は統治をしくじったと幕府に見なされるため、被害の大きさなどの記述に及び腰になる。

一方、農民側も蜂起の首謀者は死罪に問われるので、計画段階の文書は最小限にとどめがち。「不服を申請するのも命懸けで、現代の価値観からするとずいぶん理不尽だが、それが当時の常識」(西村住職)

蜂起した農民は、犠牲となった主導者をたたえる行事はもちろん、墓を建てることすら許されなかった。それでも新兵衛・為治郎への敬意と感謝の念はこらえ切れなかったようだ。

平地地蔵が造立され、1833年に開眼供養が営まれた。造立にあたって、人々は新兵衛の名はあえて伏せ、単に礼拝対象として、また峠の往来安全を願ってとの名目にした。曹洞宗45カ寺、臨済宗3カ寺、日蓮宗1寺が超宗派で呼びかけると、丹後・丹波地方の7万5千人強から寄付が集まった。地蔵の大きさが、この事業に懸ける熱さを物語る。晩秋の手厚い蓑着せも、その余熱かもしれない。

文 編集委員 岡松卓也

写真 大岡敦

《交通》京都丹後鉄道の京丹後大宮駅から丹海バス「与謝の海病院線」に乗り約10分間。運転手にあらかじめ「フリー乗降区間の平地地蔵公園」と伝え、バス停「上常吉」と「幾地」の間で下ろしてもらう。ただ同路線の運行本数は平日で5本のみ。
《ガイド》地蔵造立から5年後に庵寺が建てられたが、現在は常林寺が管理している。
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