2019年2月19日(火)

句の旅人慕い 蕪村再興 金福寺の芭蕉庵(もっと関西)
時の回廊

もっと関西
コラム(地域)
関西
2018/12/5 11:30
保存
共有
印刷
その他

かやぶき屋根の上の落葉したモミジが鮮やかだ。比叡山の麓、京都・一乗寺の金福寺。本堂の前庭を抜け、石段を登ると、紅葉の木立の中に小庵(あん)が建っている。江戸中期の俳人で画人の与謝蕪村(1716~83年)の一門が再興した芭蕉庵である。

芭蕉庵は四畳半ほどの茶座敷。窓からは京の町が一望できる

芭蕉庵は四畳半ほどの茶座敷。窓からは京の町が一望できる

庵(いおり)は四畳半ほどの広さの茶座敷。西側の窓からは京の町と西山が一望できる。丸窓を四角に替えさせるなど、蕪村は設計の細部にまで指示を出したという。

寺伝によると、元禄の頃、この禅寺で松尾芭蕉(1644~94年)は旅の脚を休め、鉄舟和尚と親交を深めた。鉄舟は境内に草堂を建て、芭蕉を慕って「芭蕉庵」と名付けたが、やがて荒廃。約80年後、蕉風(しょうふう)復興の動きの中で蕪村門下の儒者、樋口道立が庵の再興を発起した。

■寄進を募り句会

金福寺に寺宝として伝わる「洛東芭蕉庵再興記」に蕪村はこう記している。「ほとゝぎす待つ卯(う)月のはじめ、をじか啼(な)く長月のすゑ、かならず此(こ)の寺に会して、翁の高風を仰ぐことゝはなりぬ」。蕪村らは「写経社会」というNPOのような組織を発足させ、4月と9月の年2回、金福寺で寄進のための句会を開いた。

金福寺に寺宝として伝わる「洛東芭蕉庵再興記」

金福寺に寺宝として伝わる「洛東芭蕉庵再興記」

蕪村研究家の藤田真一関西大学名誉教授は「蕪村の俳句の弟子には京や大阪の裕福な商人や地方の有力者がいた。そうした門弟が自らの句を披露し、句集に加えてもらうため金銭のやりとりがあったのでは」と推測する。当時、蕪村は61歳。京の画壇では池大雅と並ぶ南画の人気絵師だった。俳画の二足のわらじを履いていたようにみえるが家計を支えていたのは画業だ。「豪商らは俳諧(はいかい)という趣味があれば、それをツテに人気絵師の蕪村に画を描いてもらえる。蕪村にとっても人脈を築くには俳諧という共通言語は格好の道具になったはず」(藤田名誉教授)

いかに蕪村が芭蕉を仰ぎ見ていたかは「三日翁の句を唱えざれば、口むばら(茨)を生ずべし」という弟子への手紙の中にもあらわれている。大阪生まれの蕪村は、20歳前後で江戸に出て俳諧と文人画を学んだ後、芭蕉の歩いた東北も遊歴した。50歳を過ぎて京に定住し、俳諧宗匠の仲間入りをしたのは55歳の時だ。

■蕉風の復興祈る

漂泊の旅を歩んだ芭蕉のような生き方を欲しながら、蕪村は芭蕉とは異なった道を歩んだ。絵を売って生計を立てる暮らしは楽ではなかったろう。「家にのみありて浮世のわざに苦しみ」ながら、四条烏丸周辺の狭い路地に妻と娘の3人でひっそり暮らす生活。だが、その中から詩情豊かな多くの句や画を残した。

芭蕉庵は足かけ6年の歳月をかけて完成し、蕪村一門は度々、句会を催した。芭蕉庵で蕪村はこんな句を詠んでいる。「冬ちかし時雨の雲もこゝよりぞ」。京の時雨の雲、つまり蕉風の復興は、ここ芭蕉庵から、わき起こるに違いない。

金福寺の小関素恒住職によると、庵は何度かの修復を重ね、屋根も約20年ごとにふき替えてきた。いまは老朽化で柱が傾き、近い将来、根本的な修繕が必要という。「修復資金もさることながら、かやぶき屋根など技術的なものが継承できるか心配だ」と話す。

芭蕉庵から山肌の小道をたどっていくと、蕪村の墓がある。12月25日の蕪村忌は冬の季語だ。「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。この辞世の句に「初春」と題せよと言って息をひきとったという。

文 大阪地方部 岡本憲明

写真 松浦弘昌

《交通・ガイド》金福寺へは叡山電車一乗寺駅から徒歩約20分。もとは天台宗だが、近世初期からは臨済宗南禅寺派の禅寺となる。舟橋聖一の歴史小説「花の生涯」のヒロイン、村山たか女は1862年、勤王の志士によって三条河原でさらし者にされたが、3日後に助けられて金福寺で尼として14年間過ごし生涯を終えた。本堂では蕪村やたか女の遺品を拝観できる。

保存
共有
印刷
その他

電子版トップ



[PR]

日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報