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勝家、光秀の動向つかめず 「本能寺の変」直後に書状

織田信長の重臣、柴田勝家が、明智光秀に信長が討たれた「本能寺の変」の8日後に、織田方の武将に宛てた直筆の書状が19日までに、新潟県新発田市で見つかった。勝家は光秀の動向を把握できておらず、調査した三重大の藤田達生教授は「勝家が光秀討伐で後れを取った理由の解明につながる貴重な発見だ」と評価している。

柴田勝家が溝口半左衛門に宛てた書状(冨沢信明新潟大名誉教授提供、書状の一部をモザイク加工しています)=共同

書状は本能寺の変の8日後の天正10年(1582年)6月10日、現在の福井市にあった居城にいた勝家が織田方の溝口半左衛門宛てに書いた。新潟大の冨沢信明名誉教授が、新発田市の溝口家に伝わる資料から発見した。

藤田教授によると、書状は光秀が拠点とした近江(現在の滋賀県)にいるとみて、織田方の丹羽長秀と連携して討伐する計画を明かしている。実際には光秀は京都から大坂に展開して勢力拡大を図っており、勝家が居場所を正確につかめていなかったことが分かる。

書状には本能寺の変について「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」とつづられていた。同時に見つかった勝家の家臣からの書状には、大坂にいる丹羽長秀との連絡の仲介を頼む記載もあった。

藤田教授は「本能寺の変の後、勝家が光秀の居場所に言及した記録は初めてで、情報収集の水準が分かる。勝家の動きを抑え込むという点では、光秀の作戦は成功していたのではないか」と語った。〔共同〕

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