2019年8月17日(土)

霊木刻んだ平安の秘仏 櫟野寺の十一面観世音菩薩(もっと関西)
時の回廊

関西タイムライン
2018/11/7 11:30
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「いちいの観音」とも呼ばれる座像は台座や光背を含めると5メートル超。重文指定の十一面観世音菩薩座像では最大という

「いちいの観音」とも呼ばれる座像は台座や光背を含めると5メートル超。重文指定の十一面観世音菩薩座像では最大という

33年に一度の大開帳。眼前に現れた秘仏は、「大きい」という一言に尽きる。

滋賀県甲賀市の櫟野寺(らくやじ)の本尊、十一面観世音菩薩(ぼさつ)座像。「いちいの観音」とも呼ばれている。観音の額の髪の生え際から足までの髪際高(はっさいだか)は2メートル39センチ、台座や光背を含めると5メートルを超える。重要文化財に指定されており、重文指定の十一面観音座像のなかでは国内最大だ。

■寺伝に残る最澄

寺伝によると792年、伝教大師最澄が比叡山延暦寺の根本中堂建立の用材を求めて甲賀を訪れた。その際、櫟(いちい)の巨木に霊威を感じ、その霊木に十一面観音像を彫ったとされる。

ただ実際は10世紀半ば、平安時代の作と推定される。甲賀市歴史文化財課の長峰透課長は「一木造りの造形であること。そして引き締まった肉付きや太い鼻、分厚い唇、そして下脹(しもぶく)れした頬は10世紀の特徴をよく現している。その時代を代表する観音像」と話す。

このいちいの観音にはいくつもの謎がある。まずはその大きさだ。

平安仏の宝庫と言われる櫟野寺

平安仏の宝庫と言われる櫟野寺

長峰課長は櫟野寺の周辺が森林資源に恵まれた地域だったことに目をつける。実際、この地の木材が奈良の東大寺をはじめとする寺社や都の造営に重宝されたという記録も残っている。「最澄にちなむ霊木信仰も根付いており、布教を広げるための重要な場所。だからそれにふさわしい大きな観音が必要になったのでは」と長峰課長は話す。

もう1つは座像であることだ。日本には多くの十一面観音像が現存するが、ほとんどは立像(りゅうぞう)。観音はこの世を練り歩き、人々を救ったとされる。だから一般的に立ち姿の立像で表現される。これには櫟野寺の三浦密照住職は「この地の霊木を刻んだということで、立っているよりも座像でこの地にいていただくという信仰があったのでは」と推測する。

■戦国の世越えて

また滋賀県内の多くの寺社は戦国時代、戦禍に巻き込まれ荒廃した。だが観音像をはじめとして櫟野寺の仏像は無事だった。なぜか。その理由として長峰課長は古くは坂上田村麻呂や源頼朝ら多くの武将が武運を祈った寺であり、織田信長傘下の武将、滝川一益が甲賀出身だった点をあげる。

さらに長峰課長は甲賀武士と呼ばれる地侍の存在に注目する。甲賀忍者の発祥ともされる甲賀の地侍は「一時は六角氏とともに信長と戦ったが、その後は信長の支配下に入り活動したことで、この地は戦禍を免れた」(長峰課長)とする。

いちいの観音は2016年9月~17年1月にかけて東京国立博物館の特別展で公開された。期間中約21万人が訪れ、凜(りん)とした姿に魅入られた。

これだけの人を惹(ひ)きつけたのは何か。三浦住職は「単に大きいだけではなく、すがりたいというか畏敬の念を感じるというか、そういう神秘性を持っている観音像だからではないか」と想像を巡らせる。

櫟野寺は江戸時代以降、檀家のいない状態が続く。だから宗派を超えて地域の人が観音を守り、守ってきた。三浦住職は東京で開催したのは「多くの人に『いちいの観音』のことを知ってもらいたかったのはもちろんだが、地元の人にこの観音がいることを再認識してほしかった」と話す。

平安時代以降、あまたの祈りを見守ってきたいちいの観音。それを見守る地域の人々の思いに支えられ、平安の観音は次の世代に引き継がれていく。

文 大津支局長 橋立敬生

写真 松浦弘昌

 《交通・ガイド》JR草津線油日駅から徒歩約35分。甲賀駅から巡回バスで15分。今年は本尊の大開帳の年で12月9日まで公開される。県外の博物館に寄託している観音像も里帰りし、約80年ぶりに勢ぞろいしている。毎年10月18日には奉納相撲が執り行われる。坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊平定祈願のお礼に相撲を奉納したのが始まりとされる。

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