新宿騒乱事件から50年 あのときの若者たちは今 - 日本経済新聞
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新宿騒乱事件から50年 あのときの若者たちは今

今から半世紀前の10月21日、新宿駅でベトナム戦争反対を訴える学生らが暴徒化し、700人以上が逮捕される「新宿騒乱」事件が起きた。反戦を訴えるはずの若者たちが、投石と放火で機動隊と衝突し、ホームを一時占拠した。あのとき現場にいた学生たちは何を思い、その後どんな人生を歩んだのか――。

「信じる正しさのために、自分ができることをしたかった」。東京工業大名誉教授で社会学者の橋爪大三郎さん(69)は新宿騒乱に参加した理由を語る。当時は東大2年生。10月21日は20歳の誕生日だった。

この日はベトナム戦争への抗議を呼びかける「国際反戦デー」。集まった学生らが投石や放火を繰り返し、レールや車両などを次々に破壊した。駅前は大混乱に陥った。橋爪さんも仲間と代々木駅から歩き、新宿駅のホームに乗り込んだ。機動隊が制止しようと近づくと駅ビルの窓から脱出し、東口広場で機動隊とにらみ合いを続けた。

当時、多くの学生は大学や国のあり方について討論に明け暮れていた。「既存の権力に反対し、直接行動する力があった。学生は未熟でも市民にできない行動をせねばとの義務感があった」と振り返る。

ただ、1969年1月の安田講堂事件などを経て授業は再開されると運動にも陰りが見えた。セクト間の内ゲバの激化に世論は離れていった。橋爪さんは挫折感とともに大学院に進学。「あの日に信じた『正しさ』とは何だったのか」を知ろうと学問の道を歩んだ。

「若さと焦りがあった。自分の頭で考えていなかったのかもしれない」と話すのは一般社団法人「消費者市民社会をつくる会」理事長で元消費者庁長官の阿南久さん(68)。入学したての東京教育大(現・筑波大)は茨城県への移転問題で揺れ、周囲の空気に突き動かされるように、集会に参加した。

駅前に大勢が集まり、ホームや駅前広場までたどり着けなかった。流れてくる催涙ガスを避けながら帰宅した後、事件を知って仲間と歓声を上げた。だが、結局大学は移転を決定。阿南さんは無力感の中で「一時的な熱狂では何も変わらない」と痛感し、学生運動を離れた。「生活に根ざした小さなところから世の中を変える覚悟を持とう」と消費者運動に力を注いだ。

「フォークゲリラの歌姫」と呼ばれた大木晴子さん(69)は今も新宿駅に立ち続ける。印象に残るのは、あのときの温かな市民の目だ。「機動隊から逃げていると、群衆の中にかくまってくれた人がいた」

翌69年2月、大木さんが仲間と始めたのは新宿駅西口広場で週1回、反戦ソングを演奏する「フォークゲリラ」。広場を埋め尽くすほど人が集まったが、西口広場は規制強化され、活動は数カ月で終わった。

2003年、イラク戦争を機に大木さんは再び反戦のプラカードを掲げ、新宿駅西口広場に立つ。「無関心に通り過ぎる人も多く、あの時代に比べて日本人が失ったものを感じる」。それでも少しずつ一緒に立つ仲間が増えた。「今もおかしいと思うことは多い。誰かが行動し続けなければ何も変わらない」

 ▼新宿騒乱事件 1968年10月21日、「国際反戦デー」に合わせて過激派学生らが新宿駅を占拠した。学生らは駅ホームに乗り込み、投石や放火でレールや車両などを破壊。新宿区のホームページによると、学生のデモ隊4600人、群衆2万人が集まり、騒乱罪で734人が逮捕された。
 国際反戦デーは日本労働組合総評議会(総評)が66年、米軍の北ベトナム空爆に抗議する「ベトナム反戦統一スト」を呼びかけたことに由来する。ベトナム戦争で使われる航空用ジェット燃料を積んだ米軍タンク車が新宿駅で炎上する事故があり、新宿に集まった学生らは「米タン(米軍タンク車)阻止」を掲げた。

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