坂本龍一 高校で学生運動、芸大合格したら総スカン
編集委員 小林明

ニューヨークを拠点に世界で活躍する音楽家、坂本龍一さんのロングインタビュー。最終回となる3回目は、育った家庭環境のほか、音楽グループ、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の軌跡、左翼運動に明け暮れた学生時代の苦い経験、現在の音楽活動などについて語る(インタビューの初回は「『戦メリ』が僕の人生を変えた」、2回目は「役作り曲作り、『ラストエンペラー』の狂騒」)。
三島由紀夫『仮面の告白』、編集者の父が発掘・後押し
――どんな家庭環境で育ったんですか。
「父、一亀は戦後の日本文学界の隆盛を支えた編集者でした(旧河出書房『文藝』の元編集長)。家には書籍が山のようにあり、作家の生原稿もあちこちに置いてある。そんな環境で育ちました。父の帰宅は深夜か明け方なので、顔を合わせるのも月1回くらい。思想的にはリベラルですが、出征経験があるので『雨戸を開けろ』『新聞もってこい』などといつも怒ったような軍隊口調で話す。怖くてまともに目を合わせたことがなかったです」
――一亀さんは旧大蔵省の若手エリート官僚だった三島由紀夫に作家になるように勧めたそうですね。

「『仮面の告白』を執筆する際、三島さんとそういうやり取りをしていた手紙が家にありました。若い作家の発掘に情熱を燃やしていたようです。椎名麟三さんの『永遠なる序章』、野間宏さんの『真空地帯』、高橋和巳さんの『悲の器』など多くの作品を世に送り出しました。酒に強い九州男児で『バカヤロー』が口癖。バーなどで作家たちに何度も書き直しを命じていたそうです。時には飲み屋で取っ組み合いのケンカもしていたらしい。『坂本家の先祖は隠れキリシタンだった』という話を親戚から聞いたこともあります」
父母の対照的な性格、完全に半分ずつ受け継ぐ
――母の敬子さんはどんな人でしたか。
「陽気で活発で社交的。父とは対照的な性格でした。音楽や芝居が好きで帽子のデザイナーだった。僕がピアノを始めたのは母の影響です。ちなみに母方の祖父、下村弥一は元東亜国内航空社長、元東京生命専務などを務めた実業家。五高、京大時代は後に首相になる池田勇人と同級で生涯の親友だったそうです。僕が子どもの頃、その祖父から偉人伝などの本を買ってもらった記憶があります。初孫だったので、よくかわいがってもらいました」
――坂本さんは父似ですか、それとも母似ですか。
「父と母の両方を完全に半分ずつ引き継いでいる感じですね。こだわりが強くて沈思黙考タイプなのは父の性格。でも、それが長続きせず、楽天的な部分がすぐに顔を出すあたりは母の性格だと思います。音楽作りも、父母双方の要素が混ざっている気がします」

――1978年にYMOとして活動を始めたとき、一亀さんが怒ったそうですね。
「赤い人民服を着たり、化粧をしたりしていたので『おまえをピエロにするために音大(東京芸術大学作曲科)にやったのではないぞ』と叱られました。90年代半ば、髪の毛を金色に染めたときには『格好でなく、ちゃんと音楽で勝負せんか』と言われたこともあります」
砂川闘争で負傷した先輩に憧れ、塩崎・元厚労相らと校長室封鎖
――都立新宿高校時代は学生運動の活動家だったようですね。
「高校に入り、すぐに学生運動の『洗礼』を受けました。ある日、学校に行くと、2年上の先輩が血のにじんだ包帯を頭に巻いていた。驚いて『どうしたんですか』と聞くと、『砂川でやられた』という。在日米軍立川飛行場の拡張に反対する砂川闘争でした。そのとき、映画『大脱走』の主役、スティーブ・マックイーンみたいで格好いいなと無邪気に憧れたのがきっかけです。それで社会科学研究会(マルクス主義の研究サークル)に出入りするようになりました」
――高3秋には同級生だった塩崎恭久さん(後に官房長官、厚労相などを歴任)らと校長室をバリケード封鎖します。

「僕や同級生だった塩崎、馬場憲治(ホリプロに入社し、マネジャーとして担当していた演歌歌手の石川さゆりさんと結婚。その後、離婚)のほか下級生も含めて数十人で制服制帽や試験、通信簿の廃止など7項目を訴え、校長室を占拠しました。学校の先生たちもその要求に真摯に向き合ってくれて、制服制帽や試験が本当になくなったんです」
「でもその後、僕が東京芸大にストレートで合格すると、友人からは総スカンを食らいました。『試験や学校制度にあれだけ反対していたのに、入試を受けて、自分だけちゃっかり大学に入るなんて裏切り行為だ』と非難されたんです」
「僕からすれば『受けたら入っちゃった』という感じだったんですが、彼らが怒るのも当然ですよね。『大学を解体するために入った』と説明しても理解はされず、しばらく相手にしてもらえなかった。浪人を経て、塩崎は東大、馬場は早大に進みます」
アウトローな芸大生活、ガラスケースを壊して逮捕
――東京芸大作曲科、同大学院ではどんな学生生活を送っていたんですか。

「アウトローな生活です。小泉文夫先生の民族音楽学を除くと、授業にはほとんど出ていません。小泉先生は、先住民族の音楽を収集するフィールドワークを続けていた研究者ですごく憧れていた。大学では音楽学部よりも、面白いやつが多かった美術学部の方によく出入りしていました。学生運動は続けていましたが、肉体労働をしたり、バーでピアノ弾きをしたり、アングラ劇団を手伝ったりしているうちに、スタジオミュージシャンとしての日雇い仕事が増えてきた。でもバイト感覚が強くてまだ職業という意識はない。自然に気持ちもすさんできます」
「こんな出来事がありました。新宿でライブをした後、翌朝まで飲み明かし、甲州街道のあたりを酔っ払って歩いていたら、喫茶店のガラスケースがふと目に入った。その中にあるスパゲティやパフェなどの食品サンプルがホコリだらけで汚れていたので、僕にはどうしても許せず、いきなりガラスを蹴りつけて壊してしまった。『よし、これで世の中から醜いものを消し去ったぞ』なんて意気揚々と歩いていたら、器物損壊で警官に捕まったんです。不起訴になったので前科はついていませんが……。よく飲み、よく遊んでいた時代でした」
YMO誕生時の経緯、細野・高橋さんとの人間関係は?
――YMOはどんな経緯で誕生したんですか。

「メンバーとなる細野晴臣さんや高橋幸宏さんとは、音楽活動を通じて知り合いました。YMO結成の構想は細野さんの家で聞かされました。3人でミカンが置いてあるコタツに座り、細野さんがノートを開くと、そこに富士山が爆発する絵と400万枚という文字が書いてあった。高橋さんは素直にやる気を見せていたようです。でも僕は『まあ、時間があるときはやりますよ……』みたいな感じで半身の態度だった。生意気でとんがっていましたからね」
――細野さんとは緊張関係があるようですが、馬が合わないのですか。
「いえ、そういうわけではありません。ただ、何かと一番年下の高橋さんが、僕と細野さんの間を取り持とうと、右往左往する場面が多かった気がします。細野さんからは『君は日本刀の抜き身のようで危ないから、その刃をサヤに収めてくれないか』なんて助言されたこともある。YMOの活動は5年ほどで終わり、僕の音楽人生は新たな局面に入ります」
「ものの音」にひかれる、時間をテーマにオペラ作曲へ
――最近はどんなことに取り組んでいますか。

「もの自体が発する音にひかれています。プラスチックのバケツをステッキでたたいたり、シンバルやドラを弓でこすったり……。楽器だって本来は木や鉱物だったわけで、もの自体のプリミティブな音に発見がある。今はエレキギターにも凝っています。和音の弾き方はよく知りませんが、適当に弦を指ではじいたり、鉄でこすったりしていると、思わぬ音が出るので面白い」
「がんになった影響でしょうか、時間についても興味があります。九鬼周造やハイデガーなど時間に関する哲学書を読んでいます。今後は時間をテーマにした新しいオペラを作曲したいですね」
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