日米自動車摩擦 1970年代から繰り返す歴史

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2018/9/27 6:30
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1981年、トヨタ自動車の「カローラ」を壊して抗議する米自動車労働者=AP

1981年、トヨタ自動車の「カローラ」を壊して抗議する米自動車労働者=AP

日米両政府が、2国間のモノの貿易を自由化する物品貿易協定(TAG)の締結に向けて交渉に入ることで合意した。交渉の間、米国が準備する自動車への25%の追加関税の適用は見合わせられるが、一方で自動車分野は交渉の大きな焦点になる。日本から米国への自動車輸出は1970年代以後、米国の景気悪化や選挙などの政治の季節を迎えるたびに貿易摩擦の中心になってきた。日系自動車各社は現地生産や部品調達を拡大してきたが、いまなお完成車と部品を合わせた輸出額は対米輸出総額の4割を占める。緊張の歴史は続きそうだ。

■輸出急増、「自主規制」で歯止め

日米の自動車摩擦の歴史は1970年代の石油危機にさかのぼる。米国の消費者が燃費の良い小型車を求めるようになり、ホンダの小型車「シビック」などが人気を集めた。その結果、日本から米国への自動車輸出が急増した。日本車にシェアを奪われた米ゼネラル・モーターズ(GM)など米自動車大手「ビッグスリー」の業績が相次ぎ悪化し、リストラに追い込まれた。

ホンダのオハイオ工場は1982年に生産を始めた

ホンダのオハイオ工場は1982年に生産を始めた

米デトロイトなど自動車産業の集積地では、日本車がハンマーでたたき潰される「ジャパン・バッシング」のパフォーマンスが繰り広げられた。80年には全米自動車労組(UAW)などが「通商法201条」に基づき、急増する日本車の輸入制限を求めて米国際貿易委員会(ITC)への提訴に踏み切る。同年、日本の自動車生産は米国を抜いて世界一になった。

高まる圧力を受けて日本政府と自動車業界は81年、対米自動車輸出台数を制限する「自主規制」を導入することになった。日米間の輸出自主規制は繊維や鉄鋼で前例があった。自動車の自主規制の枠は初年度に168万台。80年の実績(182万台)を下回る水準に設定された。自主規制は93年度まで続くことになる。

自主規制を受け入れた日本車メーカーは一方で、米国での現地生産を加速した。82年にホンダが米オハイオ州で「アコード」の現地生産を始めたのを手始めに、84年にはトヨタ自動車とGMが米カリフォルニア州で合弁工場を設立した。各社が相次ぎ現地生産に乗り出した結果、80年代後半に年間300万台を超えた日本から米国への輸出台数は88年以降は減少傾向をたどり、足元では年間170万台程度で推移している。

■閣僚交渉、竹刀のど元に

現地生産を拡大した日本車各社には90年前後に、新たな逆風が吹き始めた。米国で現地生産するクルマの米国製部品の調達の少なさを指摘して、米国側が再び日本車を攻撃し始めた。再選を目指すブッシュ(父)大統領が92年にビッグスリー首脳らと来日。宮沢喜一首相との首脳会談を経て、日本車メーカーによる米国製部品購入の努力目標が設けられた。

閣僚級協議を前に贈られた竹刀でおどける橋本通産相(右)とカンターUSTR代表(1995年6月)=AP

閣僚級協議を前に贈られた竹刀でおどける橋本通産相(右)とカンターUSTR代表(1995年6月)=AP

95年にはクリントン政権の米通商代表部(USTR)代表、ミッキー・カンター氏が米通商法301条に基づき、日本市場の閉鎖性を理由にトヨタ自動車の「レクサス」など日本製高級車13車種の輸入に100%の関税を課すと発表した。日本政府は世界貿易機関(WTO)に提訴する形で応戦。制裁発動を直前に控えた同年6月のジュネーブでの日米自動車交渉では、橋本龍太郎通産相がカンター氏に送られた竹刀を自身ののど元に突きつけるジェスチャーを披露した。

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