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「太閤びいき」恐れた家康 豊国神社(もっと関西)

時の回廊

豊臣秀吉を祭る京都・東山の豊国神社は江戸初期に破却され、明治時代に復興するまで約260年間放置されていた。破却を運命づけた手掛かりが、重要文化財の「豊国祭礼図屏風」に残っている。

豊臣秀吉の七回忌で踊る人々の様子などを描いた「豊国祭礼図屏風」(京都市東山区)

浮かれ陶酔する人々。風流傘の周りに踊り手100人、囃子方(はやしかた)100人、警護役100人が輪になっている。これを1組として都を代表する町内5組が踊りを競ったという。各組ともそれぞれそろいの衣装に身を包み、上体をくねらせるなど、のめり込むような高潮ぶり。笛や太鼓まで聞こえてきそうだ。

七回忌、屏風に

1604年の豊臣秀吉の七回忌に8日間にわたって営まれた「豊国大明神臨時祭礼」の模様だ。場所は秀吉が大仏を造営した方広寺。参加者は豪勢で派手好きだった「太閤さん」に、それぞれ甘美な思い出を重ねたに違いない。

都びとの太閤びいきには理由がある。豊国神社の大島大直権禰宜(ごんねぎ)は「豊臣政権時代、都は大規模改造・造営が目白押し。巨額の資本が投下され、商人や職人、工人にいたるまで、好景気の思い出が焼きついていたからでは」と説明する。

実際、秀吉は応仁・文明の乱以来、約100年間に衰微しきった都を再生、平安京から近世都市への足がかりとなる大改造を断行した。

旧平安京と重なる部分を残しつつ、より南北に細長いエリアに再編した。御土居と呼ぶ高さ4~5メートルもの土塁を築き、総延長22.5キロにわたり囲んだ。この内側を新たな市街地「洛中」とし中心街区も碁盤の目のような大ぶりなものから、小ぶりな短冊形に分けた。

国宝の唐門(京都市東山区)

邸宅・政庁を兼ねた豪壮な聚楽第を建築したほか、点在していた寺を特定ゾーンに集約。強権的な再開発には反発もあっただろう。ただ秩序がもどり、きらびやかな建造物の普請が続くにつれ、町衆は商いを強気に広げる手応えを得たに違いない。

七回忌の祭礼は京都・鴨川東の七条通を挟んだ方広寺と豊国神社で行われた。いまでこそこぢんまりした境内だが、かつては現在の妙法院、三十三間堂、智積院、京都国立博物館などを含むほどの巨大さだった。

「豊国祭礼図屏風」は狩野内膳が描いた6曲1双の作品。もう片方の右隻には豊国社前で神官・楽人らによる200騎もの馬ぞろえや、大和猿楽四座を能楽奉納する様子などが活写されている。

七回忌祭礼は、徳川家康が主催したという。1600年に関ケ原で西軍を下し、すでに江戸に幕府を開いた家康は押しも押されもせぬ天下人だった。だが「なお形式上は大坂城のあるじ豊臣秀頼を支える立場でもあった」(大島さん)。

破却を命じる

ただ、いざ七回忌を営んでみて都びとに根を下ろした「太閤さん」への思慕と敬愛、熱狂ぶりを知り、家康なりに含むところがあったらしい。大坂城攻めを決意するきっかけの一つになったようだ。

徳川氏は豊臣氏を滅ぼすと、1615年豊国社の破却を命じた。「ただ存命だった秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ)の嘆願で、これ見よがしの破却はまぬかれ、実際は衰微に任せるにとどまったようです」と大島さん。

豊国祭礼図屏風は、京都・吉田神社が引き取り、江戸時代を通じて保管してきた。明治天皇が草に埋もれていた豊国社の再興を命じ、現在地に復興すると、屏風は豊国神社に戻ったという。今年、大日本印刷の協力で金箔地に直接デジタル印刷した高精細な複製が完成した。

文 岡松卓也

写真 大岡敦

交通・ガイド》京阪電車七条駅から徒歩7分。1880年に方広寺の大仏殿跡地に復興・整備されたが、もともとは秀吉が葬られた阿弥陀ケ峰の山麓、東山の傾斜地一帯にあった。豊国祭礼図屏風は宝物館で見ることができる。国宝の唐門は伏見城の遺構で、門正面に掲げられた「豊国大明神」の神号は後陽成天皇の筆になる。

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