「私アホです」言える強さ 落語作家 小佐田定雄さん(もっと関西)
私のかんさい

2018/9/18 11:30
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■漫才の台本作家は多いが、「落語作家」と称する人は数少ない。小佐田定雄さん(66)は専業落語作家の第一人者だ。1977年に桂枝雀のために新作落語を書いたのを手始めに、桂米朝一門を中心に落語の新作や改作を手掛けてきた。これまでに書き下ろした新作は250席を超える。

 おさだ・さだお 1952年大阪市生まれ。関西学院大卒、在学中は落語研究会と古典芸能研究部に所属。会社員を経て35歳で専業作家に。近年は狂言や歌舞伎の台本も手掛ける。著書に「枝雀らくごの舞台裏」「米朝らくごの舞台裏」など。

おさだ・さだお 1952年大阪市生まれ。関西学院大卒、在学中は落語研究会と古典芸能研究部に所属。会社員を経て35歳で専業作家に。近年は狂言や歌舞伎の台本も手掛ける。著書に「枝雀らくごの舞台裏」「米朝らくごの舞台裏」など。

「題名のない番組」、通称「題なし」は、桂米朝師匠と作家の小松左京氏によるラジオ大阪の番組。中学生の私は番組の投稿者の「常連」でした。その頃は米朝師匠が落語家とは意識せず、ラジオから自分の名前が流れてくるのを楽しみにはがきを書いていた。

深夜ラジオの人気DJだった笑福亭仁鶴師匠のファンで、どんな顔か見てみたいと高座を聴きにいったのが落語の入り口です。落語マニアになったのは大学から。当時は「落語は古典に限る」と思ってました。

■卒業後、損害保険会社の会社員になるが、25歳の時に聴いた枝雀の自作自演の新作落語が、創作を始めるきっかけになった。

枝雀師匠は大阪の南御堂で毎月、新作落語を発表する勉強会を開いていて、第1回の公演の「戻り井戸」を聴いた瞬間、「ああ、こんな新作もあるんだ」と目からウロコが落ちた。ただ、回を重ねるうちに、話の筋が飛躍しすぎて聞き手を置いてきぼりにする傾向に。

その様子を客席で見ていて「師匠がやりたいことって、ほんまはこんなこととちゃいますか」と原稿用紙10枚ほどの台本をご自宅に郵送すると、師匠から「台本を読んだ。ついては一度会って話がしたい」と電話がきた。次の日曜日、道頓堀の喫茶店で待ち合わせると「こんな台本を待ってましたんや」と望外なお褒めの言葉。1カ月後、新作落語「幽霊の辻」が日の目を見ることになりました。

1984年3月28日、桂枝雀師匠と歌舞伎座の楽屋で(右が小佐田氏)

1984年3月28日、桂枝雀師匠と歌舞伎座の楽屋で(右が小佐田氏)

■「また書きまへんか。もっと書けますやろ」と枝雀のために新作を提供するうちに桂一門の座付き作者に。平日の昼は会社員、夜と休日は作家の二重生活だったが体力的にも限界。専業の落語作家になる背中を押したのは米朝の一言だった。

米朝師匠に「もうやめとき」と引導を渡してもらったら、あきらめがつくと考えた。師匠は人の意見に必ず逆を言いはるんです。楽屋で「師匠、会社勤めを辞めようと思うんです」と思っている真逆のことを口にしてみた。ところが答えは「うん、それもええな」。今さら「会社を辞めるのやめます」とも言えない。今となっては「大丈夫や、心配せんでもこっちの世界に来い」と叱ってくれたのだと思う。一生の恩人です。

■東京落語の上方化を手掛け、最近は東京落語の脚本も書く。

東京弁をそのまま大阪弁に直すだけではあかんのです。登場人物の気持ちも大阪人にしないと。江戸の場合は誰でもない「与太郎」という愚か者をつくり、「こんなバカなやつがいますよ」と笑う。大阪人は誰かを笑っても「こいつはアホでっしゃろ、心配しなはんな、あんたもアホですよ、私もアホです」。平気で三枚目になるし、それを喜べる。そこが大阪の強さです。

大阪の川柳に「えらいことできましてんと泣きもせず」という一句がある。きっと商売人が商いで大穴を開けたのでしょう。「えらいことですわ」と失敗した自分を笑っている。なんとかなるやろ、あかんかったらその時や。

落語って思い詰めない芸能なんですね。人生なんて失敗の繰り返しみたいなもんやと、あまり不幸を突き詰めない。歌舞伎や文楽は思い詰めた男女が心中したりするけれど、落語の場合は旦那だけ川に飛び込ませて女は帰ってくる。

落語は想像力に頼った芸。枝雀師匠はイマジネーションの芸と言ってました。作家の割合は1割、9割は演者さんの力だという話を枝雀師匠にすると「でも、この1割はあんたでっせ。大事にしなはれ」と。これは励みになった。そこは作家の誇りみたいなもんとちゃいますか。

(聞き手は大阪地方部 岡本憲明)

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