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相場師から北越の富豪 鍵富三作氏
市場経済研究所代表 鍋島高明

2018/9/8 5:30
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 渋沢栄一の回顧録に新潟の豪商、鍵富三作が登場する。渋沢は海上輸送の覇権を握った三菱の岩崎弥太郎に対抗する勢力の結集を図った。

 「渋沢は明治12年2月益田孝を引っ張り出して、三井をもって三菱に当たらしむべく、さらに伊勢の諸戸清六、越後の鍵富三作、越中の藤井能三ら地方の富豪をわが党に入れて風帆船会社設立を企てた。弥太郎はぶちこわす計画を立てた。新潟へは弥太郎の手兵の勇士小野、川田を向かわせ、同地商人に対し風帆船会社に加わるより新潟物産会社を新設してはどうだ、…新潟の連中もまいって三井党から三菱党へ変節してしまった」(「青淵回顧録」)

 三井と三菱の勢力争いで、新潟の富豪鍵富三作が三菱側に寝返ったことが海上王岩崎弥太郎に名を成さしめる結果となり、渋沢は苦渋の思いで往事を述懐している。この争いのキーマンとなる鍵富の懐柔に当たったのが岩崎の右腕となる川田小一郎でのちに日銀総裁に就く傑物である。

 さて、鍵富三作。父鍵富三作左衛門は新潟の小さな商人で、経済的には苦しく極貧と呼ぶべき生活を強いられていた。ボロを身にまとい、教科書代にもこと欠くありさまで、ろくに勉強もしなかった。文字も知らなかったともいわれる。13歳の時、新潟の有名な廻船問屋越後屋太平のもとで少年店員となる。

 「越後屋は特に忙しい家で少年の耐えがたき勤めなれども君はこれをことともせず、よく苦難に耐えて勤めけり。これ君の活発なことと辛抱強きによるが、家に帰っても貧しさに耐えがたく……」(梅原忠造編「帝国実業家立志編」)

 三作は6年間辛抱したが、19歳の時、父が病床に伏す。三作は越後屋を辞め父の看病に努めるがむなしく不帰の客となる。日ごろの活発さとはうらはらに涙にくれながらお家再興を誓う。それには小商いでは難しく、米穀商人となり投機で当てて数万両の利益を上げなければならない-そうした野心に燃えて相場師となる。ところが、売れば上がり、買えば下がる。

 「目算常に食い違い、初め2、3回の商いで少しの勝利を得た時、貯めておいた家具、衣類まで質に入れ、なお借財もして回復を図るが、またも破れ、いっそ妻を捨て置いて江戸表へ遁走せんと支度く…借りた金の催促のいと厳しければ、胆太き君でも家にあるに耐えず」(同)

 新潟を出て長岡へ逃げた時、考えた。江戸へ逃げたとて逃げとおせるものでもない。ここは新潟に戻り債権主に会って謝罪しようと決心した。債権主は三作の願いを受け入れ、借金返済の期日を延期してくれた。窮すれば通ずとはこのこと。再び相場師として立ち上がる。

 「君は大いに奮発していくばくの資本を借り、さらに売買を試みると極まれば通ずとやらにて、今回は思うごとくいちいち図に当たりければ、このたびたびの勝利に大いに資産をつくり、古き負債をもつぐない、心を安んじて、富裕の身となれり」(同)

 明治初め、米価が大暴騰し、新潟市内でも貧しい家庭では餓死者が出る事態となる。このとき、米価高騰は相場師の仕業であるとして鍵富を初め数十人の米穀商が逮捕される騒ぎとなる。取り調べの結果は、米穀商のせいではないことが判明し、無罪放免となる。

 この時以来、鍵富は先物取引から撤退し、現物米の取引に徹することとした。そして新潟港が外国貿易場としてにぎわうに伴い、鍵富は貿易商としても実績を積み、生来の投機心を発揮し、ますます資産は増加していった。こうして北越屈指の豪商として確かな地歩を築いた。全国長者番付によると、鍵富の資産は大正末期で170万円、昭和8年で100万円と細っていくのが気になるところ。=敬称略

信条
・生まれつき活発、粗暴で文字も読めなかった
・昔の貧苦を忘れず、勉強と節倹に努めた
・貧しい時、よく人の情を解して世に処する道を知った(帝国実業家立志編)
・よく時流を理解し目から鼻に抜ける活躍を演じた(越佐人物風土記)

( かぎとみ さんさく 1833-1908 )

 天保4年新潟県出身、父三作左衛門は小さな商人であったため、13歳で大手廻船問屋越後屋の丁稚となり、19歳の時、父が病没、お家再興を目指して米穀相場師となるが、失敗。夜逃げ寸前のところに追い詰められるが、ドタン場で相場が当たり始め、以後的中続きで資産は増え続ける。米穀商の外、金融業、貿易商、運送業にも手を広げ、北越屈指の富商と称される。明治41年没、長男卯一郎が若死にしたため孫の2代目三作が跡を継ぐ。(写真は新潟日報社刊「越佐人物風土記」より)

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