広島・中崎、「神」でない抑えの危うい魅力
編集委員 篠山正幸
絶対的な決め球もなく、四球でピンチを招くこともあるのに、不思議と試合を締めくくってしまう、広島・中崎翔太(26)。抑え投手といえば、剛腕、剛球で「出てきただけで降参」というタイプが思い浮かべられるが、中崎は違う。守護神や大魔神といった形容とは対極にある「人間中崎」の抑えっぷりも、悪くない。(記録は20日現在)
今季49度の登板で、1イニングを3人でぴしゃっと抑えたのは12回。1イニング投げるうちに1、2本の安打を許し、ややもすると四球を与え、すんなり逃げ切りとはいかない「中崎劇場」が上演されている。
■ファンに「胃薬を忘れずに」
このふらふらぶり、もはや「おはこ」といってもいいくらいで、本人もマツダスタジアムに来場するファンに「胃薬を忘れずに」と、冗談ながらに呼びかけている。
史上30人目の通算100セーブ到達となった8日の中日戦(マツダスタジアム)の登板も、持ち味全開の内容だった。

出番は7-5で迎えた九回。先頭の1番大島洋平にストレートの四球を与えた。次打者の京田陽太を遊ゴロ併殺に抑え、2死無走者。普通ならこのまま押し切る流れだが、すんなりいかないのが中崎。ここから四球を与え、一発が出れば逆転という場面をつくりながら、最後は何とかソイロ・アルモンテを遊ゴロに仕留めた。スリリングな抑えっぷりで「真骨頂が出ました」と自嘲気味に話した。
柳に雪折れなし、というのだろうか。打たれながらも、致命的なところまでいかないのが、この抑えの不思議なところだ。
今季、抑えに失敗して追いつかれた試合が4つあるが、勝ち越しは許さず、チームに勝利のチャンスを残した。今季、黒星はなしの1勝28セーブ。逃げきることと同時に、負けないことが抑えの使命とすると、十分責任を果たしている。
本人はびしっといきたいと思っているのだろうが、走者を出しながら粘るのも、それなりの芸当といっていいのではないか。
野球通だった作家の山口瞳さんの一文がある。
「西鉄の稲尾(和久)、巨人時代の別所(毅彦)というような人が登板すると球場がパッとはなやかになったものである。なぜか。この人たちは適当に打たれるからである」(「ああ! 懐かしのプロ野球黄金時代」)
塁上をにぎわすことなく、淡々と抑える投手は優秀かもしれないが、面白くない、と山口さんはいうのだ。
「エースというものは打たれてもよい。適当に打たれ、しかも点を与えないのがエースである」と文章は続く。
投手の分業制がまだなかったころの話で、ここではもっぱら先発完投のエースのことを語っているが、1点を守り切れるかという状況で登板し、走者を出しながら抑える投球も、ひょっとすると山口さんのお眼鏡にかなうのではないだろうか。
広島の抑えの先輩、江夏豊さんの自伝にも、こんな一節がある。
「救援という仕事を極めていくなかで、自分は投手として一番大切なことを学んだ。ピッチングの心髄は走者を置いたときの投球にある、ということだ。自分がマウンドに上がるときはたいてい走者がいた。点差によって、投球は変わる。3点差なら2点まではやってもいいと考え、配球もそれに応じたものになる。では2点差ならばどうするか。1点もやれない場面ならどうするか……。そういうことを自分で工夫することがすなわち、配球の知恵であり、ピッチングの本質なのだ」(「燃えよ左腕 江夏豊という人生」)
■ピンチ招きつつ抑える「娯楽性」
中崎はそこまでの境地には達していないだろうし、大投手を引き合いに出されたら、迷惑かもしれない。それでも、ピンチを招きつつ抑えるという投球は「出てきたらおしまい」という守護神にはないエンターテインメント性を帯びている。

広島ベンチは果たして、この危うい抑えっぷりでOKとしているのか。もっと強力な抑え投手をつくる必要性はないのか。当然ながら、疑問はわいてくるが、田島慎二や鈴木博志ら、ころころと代えて、結果的に抑え不在の状況に陥っている中日の例をみると、多少不安定でも信じて起用し続けるというやり方もあり、と思えてくる。
強打と菊池涼介らを中心とした堅い守りを誇る広島に死角はなく、3連覇のゴールもみえそうなところまできた。2016年、17年と2位以下に大差をつけてゴールし、今季も2位ヤクルトに11ゲーム差。リーグ全体としてはいささか味気ないペナントレースが続いている。
憎らしいほど強いという点で、V9時代の巨人にも似てきた広島。そのなかで唯一「緩さ」を見せているのが中崎だ。「神」ではない抑えがふりまく愛嬌(あいきょう)は、広島ファンにとっては不要だろうが、やや緩んだペナントレースに、多少の緊張感を与えるアクセントになっている。