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広島でみせた指導力と実績 森保新監督への期待

サッカージャーナリスト 大住良之

「オリンピック代表とA代表、2つのチームを1人でやっていくことは不可能です。多くの人の力を借りなければなりません。しかしこの2チームを1人が同時に見ることが、世代交代と年代間の融合という現在の日本サッカーの課題に対する大きな成果につながることを信じて、受けることにしました。2つの代表を受け持つには『覚悟』が必要です。その覚悟と、少年時代からこれまで支えてきてくれた人びとへの『感謝』をもって、職務にまい進していきたいと思います」

 サッカー日本代表監督への就任が決まり、笑顔で記念撮影に応じる森保一氏(中央)。右は日本サッカー協会の田嶋幸三会長、左は関塚隆技術委員長=共同

7月26日、日本サッカー協会理事会での正式決定からわずか数時間後という異例のタイミングで開かれた就任記者会見で、2022年のワールドカップ・カタール大会まで4年契約で日本代表の指揮を執ることになった森保一(もりやす・はじめ)新監督はこう決意を語った。昨年から20年東京オリンピックの代表監督を務めている森保監督は、1998~2000年のフィリップ・トルシエ監督以来20年ぶりに2つの代表監督を兼務することになる。

クラブワールドカップでみせた巧みな選手起用

「監督」の経験は12年から17年(シーズン半ばまで)のサンフレッチェ広島での5年半だけ。しかしその間にJリーグで3度の優勝(日本人監督最多記録)を飾り、Jリーグでの通算成績は187戦92勝40分け55敗、総勝ち点316。15年のFIFAクラブワールドカップ(FCWC)ではJリーグ閉幕直後の疲労のなか、11日間で4試合を戦うという殺人的なスケジュールのなかで3位に導いた。68年8月23日生まれ、50歳を前にした若さだが、実力だけでなく、実績も日本代表監督として十分のものがある。

「森保監督に日本代表を任せるべきだ」

私がそう確信したのは、15年12月、日本を舞台に開催されたそのFCWCでのことだった。森保監督率いる広島は12月2日と5日にガンバ大阪との「Jリーグチャンピオンシップ」を戦った。FCWCの初戦、対オークランド・シティ(ニュージーランド)戦は5日後の12月10日。そこから12月20日、3位決定戦の広州恒大(中国)戦まで11日間で4試合を戦い抜き、3勝1敗という堂々たる成績を残した。

長いシーズンが終わったばかりで、しかも胸突き八丁ともいえるチャンピオンシップ2試合を戦い終え、チームは疲弊しきっていた。故障者も少なくなかった。オークランドとの初戦では、新たに若手アタッカーの野津田岳人と中堅MFの柴崎晃誠が新たに故障者リストに加わり、さらに厳しい状況となった。

しかし森保監督はまったく動じず、先発メンバーを大幅に入れ替える「ターンオーバー」をしながら登録した23選手のうち19人を使って、どの試合でも高いレベルのパフォーマンスを見せたのだ。

アルゼンチンの名門リバープレートとの準決勝(12月16日)を迎えたとき、広島は中2日ずつの3連戦目。相手は8日前に来日してこの試合のために万全のコンディションを整えていた。

「美しく勝つよりもしぶとく勝ちたい」

ボールは相手に支配された。しかし広島は奪ったボールをしっかりつないで攻め返し、シュート数は13対15。まったくの互角だった。0-1の唯一の失点はFKを頭でつながれて決められたものだったが、このとき広島DF塩谷司は明らかに押し倒されており、ビデオ副審(VAR)があればノーゴールの可能性が高かった。

そして4日後の12月20日。広島は中国のスター軍団、広州恒大と3位決定戦を戦い、ブラジル代表のパウリーニョに先制点を許しながら、後半、FWドウグラスが2点を決めて逆転勝ちした。

試合後の記者会見で、森保監督は、サンフレッチェが「平和都市・広島」を代表するクラブであり、この大会を通じて広島の名が世界に発信されたことを喜んだ。そしてまた、「勝つことにこだわるのはプロとして当然。美しく勝つのは理想だが、それよりもしぶとく勝ちたい」と話した。このあたりに、森保監督の真骨頂がある。

 2012年、初のJ1年間優勝を果たし、シャーレを掲げる森保監督(左)=共同

12年の監督就任当初は、前年までチームを率いてきたミハイロ・ペトロヴィッチ監督が築いたパスサッカーに守備の練習を取り入れただけで優勝した、などと言われた。が、その後、予算の限られたクラブの悲哀で毎年主力選手が引き抜かれながらもチーム力を落とさず、むしろ攻撃面の良さを生かしながら勝負強いチームをつくった手腕は並大抵のものではない。そして世界の強豪を相手に臆することなく戦いきったことで、「日本代表監督の資格あり」と感じたのだ。

一般に「長崎県長崎市出身」ということになっているが、生まれたのは静岡県掛川市。父親が造船関係の仕事をしていたため、幼少期には名古屋市、横須賀市などにも住み、小学校1年生のときに長崎市に移った。

長崎日大高から87年に日本サッカーリーグのマツダ(旧東洋工業、現在のサンフレッチェ広島)に加入した。スタミナは抜群だったが、体は細く、非力で、まったくの無名。そんな森保のインテリジェンスと、MFとしての能力を見抜いたのは監督のハンス・オフトだった。3年目の89年に日本リーグデビューを果たした。

92年にオフトが日本代表監督になったとき、カズ(三浦知良)やラモス瑠偉といったスターたちとともに最初のメンバーに名を連ねた24歳の「森保一」という名前を知っているファンは、広島以外にはほとんどいなかった。「もり・やすいち」あるいは「ほいち」などと読んだ人が多かったという話は、あまりに有名。彼のニックネーム「ポイチ」もここからきている。やがて彼はボランチとして不可欠な存在となり、96年まで日本代表として35試合プレーすることになる。

トルシエ監督は3人のDFが並ぶ「フラット3」が看板だったが、それ以後の日本代表は4バックが主体だった。そのなかで、昨年森保監督が就任して以来、オリンピック代表は3バック(3-4-2-1システム)でプレーしている。森保監督は、広島時代、前任者を引き継いでずっとこのシステムで通し、そのままオリンピック代表に持ち込んだのだ。システムにこだわっているわけではないだろうが、「クラブチームのように緻密なコンビネーション・サッカーのチームをつくりたい」という目標の下、やり慣れたこのシステムでスタートしたのだろう。今後、A代表も3バックになる可能性は十分ある。

オールジャパンでの支援体制急務

ただ、気になるのは、やはり「2チーム兼務」がうまくいくかどうかだろう。8月中旬からインドネシアのジャカルタでアジア大会があり、東京オリンピック世代のU-21日本代表が出場する。その大会が終わるか終わらないうちに、9月7日(札幌、対チリ)、11日(吹田、対コスタリカ)のA代表戦のメンバーを発表しなければならない。

サッカーW杯ロシア大会の日本代表の練習拠点で西野監督(右)と言葉を交わす森保コーチ(6月、カザン)=共同

当面は現在のU-21のスタッフでやりくりするというが、先行きはどうだろう。森保監督の指導力、勝負にこだわる厳しさ、そしてどんな相手ともまっすぐ向き合って自分の考えを伝える人間としての資質には、まったく問題はない。だが、手が回らなくなるのは目に見えている。

私は、日本人、外国人を問わず、森保監督が必要とする指導ができるスタッフを、常勤だけでなく臨時コーチのような形でも招聘(しょうへい)するという方法もあるのではないかと考える。たとえば攻撃面でのコンビネーションを高めるには、森保監督が敬愛するペトロヴィッチ監督(現在コンサドーレ札幌)に集中的に指導してもらったらどうだろうか。

「オール・ジャパンで支援する」と、日本協会の田嶋幸三会長は約束した。ロシア・ワールドカップでは好成績を残した。しかし世代交代は急務であり、日本代表には課題も多い。20年東京オリンピックから22年カタール・ワールドカップに向け、日本サッカー界を挙げて森保監督を支援する態勢をつくらなければならない。

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