2019年4月26日(金)

北海道・利尻の戦禍伝える 過酷な引き揚げの体験者

2018/7/24 10:15
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国境に位置する北海道の離島、利尻島で戦争体験の伝承が課題となっている。豊かな自然や海の幸に恵まれ、現在は景勝地としても知られるが、一部の島民は戦後、シベリアでの抑留や南樺太(現サハリン南部)からの過酷な引き揚げを経験した。これまで語られる機会はあまりなく、地元の郷土史家は「貴重な戦禍の記憶が途絶えかねない」と危機感を募らせる。

南樺太の地図を指さしながら、戦争体験を語る吉田欽哉さん(6月25日、北海道利尻町)

南樺太の地図を指さしながら、戦争体験を語る吉田欽哉さん(6月25日、北海道利尻町)

日本最北端の稚内港からフェリーで約1時間40分の利尻島。貴重な高山植物が自生する利尻山の自然や新鮮なウニなどを目当てに、毎年十数万人の観光客が訪れる。

島が戦場となったことはないが、かつて日本の統治下だった南樺太に近く、同地で戦禍に巻き込まれた島民も少なくない。利尻町の漁師、吉田欽哉さん(92)もその一人。衛生兵として1945年3月に入隊し、南樺太の豊原(現ユジノサハリンスク)で終戦を迎えた。

戦後、旧ソ連軍に捕らえられ、真冬は零下40度にもなるシベリア東部の沿海地方を4年間、転々とした。食事は1日2切れのパンだけで、港湾工事や樹木伐採などの重労働に従事。飢えや病気で仲間が次々と行き倒れ、現地で約80人を埋葬した。労働に従事できなくなれば帰国できると考えて自ら手を切り落とす人もいるなど「人間の限界だった」と振り返る。

49年に復員して島に戻り、漁師となった後は自身の戦争体験を語る機会はほとんどなかったが、シベリアに残した仲間のことが長年心残りだった。札幌市の市民団体が取り組む語り部活動を偶然知り、「仲間の遺骨調査が進むきっかけになれば」と90歳を過ぎた約1年前、札幌や東京などの講演会で自らの戦争体験を語り始めた。

南樺太の敷香(現ポロナイスク)で生まれた利尻町の漁師、吉田隆さん(83)は終戦直後、母の故郷だった利尻島に一家で引き揚げた。「ソ連が攻めてくると聞き、裸一貫で逃げてきた」。日本の軍艦に乗って島にたどり着き、食料の芋やカボチャを植えるため、子供の手でササの根が張る荒れ地を開墾した。「戦後は島の人と肩を並べられるようになるだけで必死だった」と述懐する。

利尻町史によると、45年4月に約1万6千人だった島の人口は、翌46年10月には約2万人に急増した。

当時は物不足が深刻で、島への引き揚げ者は必ずしも歓迎されたわけではなかったようだ。南樺太の本斗(現ネベリスク)から引き揚げた利尻町の佐藤八重子さん(82)は「島に来てからは『疎開者』と呼ばれ、疎外感を感じていた」と話す。

こうした島民の証言を集めている利尻町立博物館の元学芸課長、西谷栄治さん(63)は「戦後は島で生活を立て直すことに精いっぱいで、当時を振り返る余裕がなかった人が多い。島民も高齢化しており、今のうちに体験を聞き取り、将来に生かす必要がある」と力を込める。

■シベリア抑留・樺太引き揚げ者の高齢化進む

 北緯50度以南の南樺太(現サハリン南部)は、日露戦争を終結させた1905年のポーツマス条約で日本の統治下となり、最も多い時には約40万人の日本人が暮らしていたとされる。45年8月に旧ソ連軍が侵攻を始め、住民は避難を開始。厚生労働省によると、千島列島も含め約27万7千人が日本に引き揚げた。

日本統治下だった戦前の南樺太・豊原市内=全国樺太連盟提供

日本統治下だった戦前の南樺太・豊原市内=全国樺太連盟提供

一方、終戦後に樺太や旧満州(現中国東北部)などで旧ソ連軍に捕らえられた旧日本兵らは旧ソ連やモンゴルに送られ、森林伐採などの重労働に従事した。厚労省によると、抑留されたのは約57万5千人で、寒さや飢えなどに苦しみ、うち約5万5千人が死亡した。

戦後70年以上が経過し、戦争体験の伝承は年々難しくなっている。樺太からの引き揚げ者らでつくる全国樺太連盟(東京)の会員数は94年度の約6300人をピークに減少し、2017年度は約1300人。会員の平均年齢は83.5歳(18年6月現在)で、21年までに解散すると決めている。

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