2019年5月23日(木)

150年前、堺は「県」だった 奈良も合併 知事驚く(もっと関西)
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コラム(地域)
2018/7/19 11:30
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今から150年前、堺は「県」になった。県域は現在の大阪府東南部まで拡大、奈良県まで合併する勢いだった。だが、堺の県知事は奈良合併を事前に知らず、盟友・大久保利通への手紙に「驚愕(きょうがく)千万かつ迷惑」と書いている。謎多き「堺県」の歴史と今日への影響を探った。

堺県が誕生したのは1868年。堺市博物館は今月8日まで企画展「堺県とその時代」を開いた。今の堺市が県だったことはどの程度知られているのか。来館者10人に尋ねてみた。

「以前から知っていた」と答えたのは4人。このうち、実家が奈良県の男性は「奈良はかつて堺県だったと教わった」という。

堺市民の夫婦はそろって「学校で習った」。そこで堺市中学校社会科の副読本を見ると確かに出てくる。69年に河内、71年に和泉、76年に奈良県が堺県に編入され「広大な面積の県でした」と説明している。

「郷土の文化や歴史を学べる『堺かるた』にも出てきます」と堺市博物館学芸員の矢内一磨さん。「い」の札が「和泉河内大和あわせて堺県」と豪快だ。

ではなぜ、71年の廃藩置県に先立って堺が県になったのか。地域社会の歴史に詳しい神戸大学・人文学研究科長の奥村弘教授は「幕府の直轄領だったから」と話す。中世以来、港湾都市などとして栄えた堺を幕府が重視。明治新政府も国内統治上の重要な拠点と認めて県にしたという。

奈良までのみ込んだのはなぜか。当時、堺県令(県知事)の税所(さいしょ)篤は大久保、西郷隆盛と並び「薩南の三傑」と称された人物。薩摩藩の力で強引に拡張したのだろうか。

「税所が大久保に送った書簡が残っています」と話すのは、奥村教授の教え子で神戸大大学院生の若手研究者、津熊友輔さん。税所にとって奈良合併は寝耳に水だったようで「驚愕千万」。「迷惑」はせっかく堺県の運営が軌道に乗ったのに、という思いのようだ。

奥村教授は「当時は中央集権体制を固め、行政コストを削減するために全国的に県の統合が進んだ。大久保が親しい税所にも知らせず、秘密裏に合併を進めた可能性がある」とみる。

税所は善後策も記した。現在の堺市にあった県庁を、奈良に近い誉田(こんだ、現在の大阪府羽曳野市)に移し、県名を誉田に変えることまで考えたという。

「誉田県」は幻に終わったが、矢内さんは「堺と奈良の歴史的な結びつきも見逃せない」と言う。そこで長い歴史と伝統をもつ堺山之口商店街を訪ねた。

寛永年間の創業で、刃物や工具を販売する小久商店。13代目の平野圭司・代表取締役の母、周子さんは「父も主人も奈良出身。従業員も奈良から来る人が多かった」と語る。明治創業で時計や宝石を扱う萬字堂本店5代目の万代勇美子さんも「以前は『養子は奈良、嫁は和歌山』と言われていた」と話す。人的、経済的な交流の深さも堺・奈良合併の一因だったのだろう。

一時は巨大化した堺県だが、81年には財政基盤の強化を必要とした大阪府に編入され、あっけなく幕を閉じた。その後、奈良は87年に大阪府から独立、県としての復活を果たす。一方、堺県の復活運動も80年代前半に見られたが、実現しなかった。

13年と短命だった堺県は何を残したのか。73年に日本最古の公立公園としてオープンした浜寺公園がその一つだ。80年には堺県内に奈良公園も開園した。博覧会を開いたり、独自の教科書を発行したりするなど「地方自治の実験的な試みも多い」(矢内さん)。

住民の意識への影響もありそうだ。現在の堺市長、竹山修身さんは「明治時代に県だったことから堺の誇りが生まれ、150年保持されてきた」と話す。堺は89年の市制・町村制で堺市となり、2006年には政令指定都市になっている。

(堺支局長 塩田宏之)

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