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クラブを振るだけがプロの仕事ではない

ゴルフジャーナリスト 地平達郎

6年半前に74歳で亡くなった男子ゴルフの杉原輝雄さんは現役時代、その存在感の大きさからプロゴルフ界の「ドン」と呼ばれた。162センチと小柄ながら、青木功、尾崎将司、中嶋常幸ら180センチクラスの大型選手に食らいついて戦うゴルフは「マムシ」とも称された。

トーナメントの後に礼状

その杉原さんは、自分が出場したトーナメントが終わると、大会のスポンサー企業と開催コースの支配人に礼状を出していた。企業に対してはスポンサーとしてトーナメントを開いてくれたことへのお礼を、コースに対しては加えてプロゴルファーならではの感謝の気持ちが込められていた。

杉原さんは大会のスポンサー企業や開催コースへの感謝を忘れなかった

プロトーナメントを開催すると決まったコースは、長い時間をかけてコース整備が必要だ。天候と水の量を見計らいながら、芝の管理にいっときも気が抜けない。

同時に、それ以上にやっかいなのが大会終了後の復旧である。プロはショットの際に大きくターフをとる。飛距離は大差がないので、各ホールで同じようなところにディボット跡が集中してコースが傷む。

コースキャディーだった杉原さんは、そのことを痛いほど知っている。だから、開催コースに「ありがとうごさいました」と、「次もお願いします」と伝えていたのだ。

杉原さんは大阪府の茨木カンツリー倶楽部で育った。ある年、その茨木CCでトーナメントが開かれた。当時すでにトッププレーヤーだった。ラウンド後に、いわゆる囲み取材があり、それが終わるとクラブハウス内の食堂に上がるのが普通だが、そのときは違った。

向かった先は従業員食堂であった。一流選手になっても自分の立場は見失わない。

ロープ越しだか、ときにはギャラリーと冗談を言い合い、お客さんを楽しませたものだ。

茨木CCで杉原さんの大先輩に、プロ草創期の第一人者、宮本留吉さんがいる。1926年の第1回日本プロゴルフ選手権に優勝。29年には安田幸吉さんとともに、日本人プロとして初めて米国遠征し、ハワイアンオープンに出場した。

日本オープン最多の6勝を挙げた宮本さんは、プレーヤーとして超一流だっただけではなく、クラブデザイナーとしても当時の第一人者だった。外国製の高いクラブが主流だった時代に「トム・ミヤモト」ブランドのドライバーやアイアン、パターなどを展開し、アマチュアにも愛好者が多かったという。

後年、関東に移り住んでクラブづくりを続けるとともに、千葉県の船橋カントリー倶楽部の初代所属プロになった。トレードマークのニッカボッカーズ姿でアマチュアにルールやマナーを説いたり、スイングレッスンしたりするのを生涯の楽しみにしていた。

宮本さんと一緒に米国遠征した安田さんは、後に日本プロゴルフ協会の初代理事長(会長)に就任しているが、コース設計家としても手腕を発揮。北海道の小樽カントリー倶楽部(新コース)や千葉カントリークラブ梅郷コースなど多くのゴルフ場を手掛けている。

「アマチュアが楽しめるようなコースに」がその信条だった。

薄れるプロとアマのいい関係

プロゴルファーは試合でいいスコアを出して、賞金を稼ぐことが一番の仕事である。

しかし、時代背景はやや異なるものの、杉原さんや宮本さん、安田さんらの生きざまを見ていると、ただクラブを振っていただけではない。

プレーだけではなく、クラブの知識、ルールやマナーの解釈や実践、コースに対する造詣など、ゴルフに関するあらゆる面でプロフェッショナル、専門家であろうとしていた。そして、それらの先にはすべて、アマチュアゴルファーの存在があった。

アマがいてこそのプロ。そのプロからいろんなことを学び、ゴルフを深く楽しむアマ。そんないい関係が薄れつつあるのが寂しい。

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