/

イチローの変わったもの、今も変わらぬもの

スポーツライター 丹羽政善

今年2月、ある動画が話題になった。

朝の登校風景だろうか。教室に入るとき、入り口で待つ教師がまるでハイファイブ(ハイタッチ)をするかのごとく、生徒一人ひとりをダンスしながら迎える。それぞれパターンが違い、それに絡む子どもたちもニコニコしながら自分の番を待っていた。

5月、同じような映像が目にとまった。

一人ひとりと異なるダンス…

マリナーズの試合直前、グローブを手にしたイチローが、チームメートやコーチのところに歩み寄りながら、一人ひとりと異なるダンスをかわす。それを紹介したテレビ局の解説者は爆笑したが、なかなか見ることのないそんな試合前の儀式は、イチローのむしろ"素"ではなかったか。

「ロースター(選手登録)を外れてからもやっているよ」

そう教えてくれたのは、セーフコ・フィールドの一塁側ダッグアウトの真横(フィールドを背にすれば右手)にある小さなスペースが仕事場という旧知のおじさんだ。かつてはマリナーズのクラブハウスの入り口でセキュリティーを担当しており、見なくなって久しかったが、退職したあと、大リーグ機構から連絡があったという。うちで働かないかと。

どんな仕事か。

たとえば5月。エンゼルスのアルバート・プホルスが、シアトルでメジャー通算3000安打を放ったが、彼が打席に入るときには特別な印が入った公式球をボールボーイを通じて主審に渡し、打った後でそのボールを一旦回収。本物であることを証明する公認のシールを貼って本人に返す。旧知のおじさんは「たいしたことじゃない」と謙遜するが、記録球を巡っては後々、価値が跳ね上がり高値で売買される国。裁判なども起こりうる。記録管理の上では大きな責任をおう。

思わぬメリットがあった。

「こんな近くで試合が見られるなんて。ダッグアウトの様子もわかるし、監督やコーチが審判とどんな激しいやり取りをしているかも聞こえちゃう(笑)」

そんな日常の中でイチローのダンスも目の当たりにしたが、こんな話も教えてくれた。

「イチローは試合が始まる直前、"儀式"を行ってからダッグアウトから消える。試合に勝っているときは、九回2死になるとクラブハウスへつながる階段の一番下で待機し、勝った瞬間、一番にフィールドへ出ていってチームメートを迎える」

ヤンキースタジアムで先日、試合中も変装してダッグアウトに居続けたのは、むしろ例外だった。

さて、そんなイチローの様子を見ていて、おじさんはふと、あることにあることに気づいたという。

「昔と比べると、少し表情が柔らかくなったかな」

昔というのはもちろん、2012年7月にヤンキースにトレードされる前のイチロー。久々に見たイチローをめぐる変化をこう表現した。

「以前はイチローの一部を自分のものにしたい、という人が多かった。彼はそれに壁をつくって自分を守っているように映ったが、今、その壁は見えない」

変化を感じることはある。

今季27セーブをマークしているクローザーのエドウィン・ディアスは最近、日本人メディアを見ると「コンニチハ」と日本語であいさつするようになった。おそらく日本語を覚えたのは、打撃練習で球拾いをしているときにイチローと並んで雑談をするようになってからだろう。

チームメートの打撃練習の間、守備練習を兼ねて球拾いする=USA TODAY

5月3日にロースターを外れるまで、イチローにとって球拾いの時間は守備練習の時間でもあり、縦横無尽にフィールドを駆け回った。そんなときにイチローに話しかけられるはずもなく、チームメートには邪魔をしてはいけないとの心理さえ働いたはず。しかし、ロースターを外れてからのイチローは、その時間にほかの選手と外野で立ち話をすることも少なくない。ディアスこそがそんな一人。日本語も上達していった。

相変わらずストイックではある。

ホームゲームの場合、午後3時20分にマリナーズのクラブハウスが開き、メディアの入室が許される。ほぼそのタイミングで、イチローはバットを手に室内ケージへと消える。そこには初動負荷のマシンもあり、30分ほど体を動かす。午後4時過ぎに戻ってくると、着替えて15分から行われるチームの全体練習に向かう。一連の流れはロースターを外れる前となんら変わらない。

全体練習がないデーゲームの試合前には通訳を伴ってフィールドに姿を見せると、キャッチボールなどで汗を流すのも変わらぬルーティンだ。

やはり階段を1段下りた?

ただ、イチローが変わったかといえば、やはり階段を1段下りたのかもしれない。

もう何年も前のこと。若い選手をどう導いていくのかと聞くと、きっぱり言った。

「僕は子守じゃない」

そのやや厳しい言葉からは、イチローがどんな世界で戦っているかが垣間見え、同時に若手に自立を促すかのごとく、プロフェッショナルとしての心構えを問うていた。その姿勢が誤解されることもあったが、とはいえ、アドバイスを求めにくる選手を拒むことはなかった。

今も自ら何かを指摘することはない。だが、意識的に話しかけやすい時間をつくっているように映る。ダンスであそこまで素をさらすなら、自然に会話も生まれる。

むろん、それが与えられた役割といえばそれまでだが、その一方で、試合に出られないという現実は変わらず、そこを隔てる見えない壁は無情である。

釈然としない中、シアトルにも初夏の日差しが降り注ぎ始めた。

すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料

セレクション

トレンドウオッチ

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
新規会員登録ログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
新規会員登録 (無料)ログイン