ソプラノ歌手田村麻子 母の期待はねのけオペラ回り道

タイガー・マザー。徹底したスパルタ方式で子どもをエリートに育てる猛母のことだ。ニューヨーク在住のソプラノ歌手、田村麻子は「タイガー・マザーの教育」を受け、「失われた子ども時代」を送ったという。母が定めたピアニストの道をあきらめ、声楽に転じてキャリアを築き、心の安定を得たのは40歳を過ぎてからだ。
◇ ◇ ◇
生まれは京都府。母は同志社女子大学に在学中、合唱団に参加する音楽好きだった。ボイストレーナーに来ていた東京芸術大学出身の声楽家にあこがれ「子どもには音楽の早期教育を施し、将来は東京芸大に入れよう」と決めていた。麻子が生まれ、2歳でフォーレの「レクイエム」のレコードを聴かせると必ず泣きやむのを見て「音楽の才能がある」と確信。4歳のとき、東京芸大卒業の「町一番のピアノ教師」に送り込んだ。「期待にこたえようと懸命だったのか、ときには1日に16時間も練習。覚えも進歩も目覚ましく『私はピアノを弾くために生まれてきた』と思うようになっていた」
「小さい手」が壁に
最初の危機は1980年、小学校5年生で訪れた。全日本学生音楽コンクールのピアノ部門・小学生の部を受けたところ、現在は東京芸大准教授の青柳晋ら「べらぼうに上手な参加者がたくさんいて、頭をハンマーで殴られたように思い、ひたすら悔しかった」。ライバルたちに比べ自分の手がかなり小さいのは気になったものの、「そのうち大きくなるだろう」程度にしか考えていなかった。
だが手のサイズは日増しに大きな壁として、麻子の前に立ちはだかる。中学校へ上がっても、1オクターブに届かない。それでも諦めきれず、東京芸大付属高校(芸高)受験を視野に入れ、14歳から東京の名教師のところへレッスンに通い出した。最初の先生は「ピアノを弾くのに最悪の手」、2人目の先生も「音楽的には素晴らしいが、こんな小さい手のピアニストはいない」。結局、芸高受験に失敗、父の転勤で東京に住むことになって、芸術課程ではなく普通科の都立高校に進学した。「4歳から続いた母の洗脳だけでなく、私自身のアイデンティティーもガラガラと崩れてしまった」
ある日、童話の「青い鳥」を原作とする劇団四季の「ドリーミング」に母が麻子を連れ出した。ミュージカルをみるのは初めて。麻子は「新しい夢の世界を発見した」。振り返れば、歌も芝居も子どものころから好きだった。一家で民放の歌合戦番組に出場し、準優勝に輝いた「実績」もあった。「ピアノからミュージカルへ進路を変えたい」と母に切り出すと、「ミュージカルだけでは、つぶしがきかない。まずは東京芸大の声楽科に入りなさい」。タイガー・マザーはまだ、「芸大」の2文字を返上していなかった!
オペラ歌手への道を歩み出す
ピアノの先生から二期会の創立者の一人である大テノール歌手で東京芸大の元教授、柴田睦陸(1913~88年)を紹介されて亡くなるまでの2年間レッスンに通い、芸大受験の態勢を整えた。イタリアの大プリマドンナ、レナータ・スコットが主役を歌ったドニゼッティの「ランメルモールのルチア」の上演に触れ、「オペラこそ、私の世界だ」と悟ったのは受験の寸前。最終選考で芸大には行けなかったが、国立音楽大学声楽科へ入ることができた。大学院のオペラ科進学では東京芸大に合格、母の長期目標もついに満たされた。
プロ歌手として最初のチャンスは、25歳で訪れた。ロータリー日本財団の奨学金を得てイタリア留学の準備に着手した直後、札幌で開催中の国際教育音楽祭「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)」のオペラ上演、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」のデスピーナ役に来日したイタリア人ソプラノが体調を崩し、「もしかしたら本番を歌ってもらうかもしれない」と、代役のオファーが飛び込んできた。芸大大学院のオペラ科で麻子が歌うデスピーナを聴いていたピアニスト、森島英子の推薦だった。結局、本番はイタリア人がそのまま歌ったが、当時のPMFを切り盛りしていたマネジャーの佐野光徳の目にとまり、佐野の音楽事務所と契約、今日まで所属している。佐野はさらに、自身が関係するプラシド・ドミンゴ国際オペラ・コンクールへの受験を勧めた。
97年の同コンクールでは最年少入選、「3大テノール」の一人であるドミンゴの知遇を得た。大歌手は「君の声にはダイヤの原石の輝きがあるのだから、無理に声を張り上げたりしなくていい。インターナショナルなキャリアを目指すなら英語も必要だし、留学先はイタリアより、教育機関の質がそろっている米国にした方がいいよ」と、真剣に諭してくれた。ロータリー日本財団も留学先の変更を快諾して翌年、27歳の麻子は初めてニューヨークの土を踏んだ。
ニューヨークには3校、日本の音大に相当する教育機関がある。ジュリアード音楽院とマネス音楽院、マンハッタン・スクール・オブ・ミュージック。麻子は3校とも合格した中で唯一、奨学金付きだったマネスを選んだ。母は最も日本で知られたジュリアードへの進学を主張したが、今度ばかりは無視した。
仕事が来ない!
マネスを首席で卒業、「さあ、仕事ができる」と意気込み、次々にオーディションを受けても成果はゼロ。やがて「素材は素材。舞台で歌い演じるプロとしての完成品でなければ、相手にされない」と気付き、日本時代の最後に全幕を歌った経験のあるヴェルディの「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」の主役、ヴィオレッタのオーディションに狙いを定めた。最初は「またアジア人か」と冷ややかな視線だった審査員8人の前で堂々、最高音を決めると「ブラボー」の声が上がった。「おめでとう。いちばん素晴らしかった。君には未来がある」とほめられたのに、役は取れなかった。演出家のプランが、西洋人の風貌を前提としていたのだ。「ピアニストになれず、血みどろの努力を重ねて歌手になり、全身全霊をこめて歌ったのに……。私はもう、だめかもしれない」。泣きながらマンハッタンを2時間、さまよった。ニューヨークもオペラも、嫌いになった。
帰国を考え始めたころ、イタリアのヴェローナ歌劇場からR・シュトラウスの「エレクトラ」の小さな役のオファーが舞い込んだ。「やはりイタリアでやり直そうか」。そんな気分で現地に着くと、けいこはイタリア語で歌詞はドイツ語と、英語の通用しない世界が待っていた。必死にこなす姿がイタリア人マネジャーの目にとまり、ルーマニアやハンガリーで「ルチア」を歌う機会を得た。最後はイタリアに戻って、「ルチア歌い」として一世を風靡した大歌手、マリエッラ・デヴィーアとダブルで出演する幸運まで授かった。
ビザ更新を兼ねてニューヨークへ戻った折、試しにオーディションを受けてみた。「本場ヨーロッパで主役を演じたキャリアが効いたのか、事情は打って変わり、どんどん合格するようになった」
今度は自分が母として
以後、本拠は一貫してニューヨーク。タイガー・マザーの呪縛から逃れて自己評価を何とか高めようと、もがきにもがいた30代の終わりにふと、「今度こそ母ではなく、自分自身で自分を育て直すために、子育てがしたい」と思った。41歳で米国人と結婚、授かった女の子は6歳になった。「甘くなりすぎないようにはしていても、基本は娘のやりたいことをやらせる。周囲は、子育てを始めて『麻子の歌が変わった』と言うけれど、自分ではよくわからない」

確実に変わったと思えるのは「舞台に臨む心の持ち方」だ。以前は「ギリギリまで、賭けていた」が、今は「人生でいちばん大事な存在が子どもにシフトしたので、舞台の上が最もリラックス、発散できる場に一変した」と、心境の変化を打ち明ける。
最近の田村は日本へ定期的に戻り、まだオペラの世界と隔たりのある観客に向けて多彩なヒロインの生き様を語り、アリアを歌い紡ぐ「オペラティックコンサート~オペラの中の究極のヒロイン達~」を各地で開催している。次回は7月6日、東京・四谷の紀尾井ホール。関西で「歌える噺家(はなしか)」の異名をとるテノール歌手、橋本恵史をトークのパートナーに迎え、涙あり笑いありの絶妙なエンターテインメントを繰り広げる。そこには田村の山あり谷ありの人生経験のスパイスもしっかり、染み込んでいるはずだ。(敬称略)
(NIKKEI STYLE編集部 池田卓夫)
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