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学生スポーツ、負けることにこそ意味がある

日大アメリカンフットボール部の反則タックル問題が大きな波紋を呼んでいる。アメフトに関しては全くの門外漢だが、ここに現代におけるスポーツや社会の問題が集約されているようにも思える。

選手の側から監督やコーチに意見しにくい上下関係は、日本の保守的な考え方の残っている企業や体育会系の部活動ではよくみられ、権力を利用し意見を押し通すパワハラといえなくもない。それらがなぜ今回、露呈したのか。競技は違うが学生時代に体育会に所属し、現在プロとして活動している立場から考えてみた。

早大競走部では夢見た箱根出場は果たせなかった(1990年青梅報知マラソンに出場)

今回の問題は、指導者と学生の目的意識の乖離(かいり)が根っこにあるように思える。

監督・コーチはプロスポ―ツ同様に結果のみで判断されがちだ。大学ブランドを高めるために負けは認めない勝利至上主義に陥りやすい。そうであれ卑怯(ひきょう)な反則行為は言語道断であり、指導者としての立場を守るだけの発想は学生の思いとは大きな隔たりがある。非難されても致し方ないだろう。

一方、学生は栄冠を手にすべく必死に努力をしつつも、頭のどこかにその勝利をも凌駕(りょうが)する何かを求めている。それは苦しいトレーニングを乗り越えた達成感であったり、その過程で培った友情だったり、一つのことに全身全霊を込める高揚感かもしれない。いずれにせよ必ずしも結果に固執するわけではない。もしかしたら卑劣な勝利よりは、心から納得し自分を奮い立たせてくれる負けの方をむしろ心の奥底では欲している。

学生スポーツは負けることにこそ意味があると思う。もっと言えば負けるために闘っているのかもしれない。というのはトーナメント戦でも駅伝でも最後まで勝ち残るのはほんの一握りであり、たとえ勝ち残ったとしても選手としてその栄誉に浴する者はさらに限られるからだ。学生には、単純な勝敗より、社会という次のステージでやり抜く力を追求すること――それこそが大学スポーツに対し社会が求めているものではないだろうか。

監督たち指導者が学生を育てるということは、何も競技力のみを評価するのではなく、学生の人間性も含め総合的に考慮すべきだろう。私の周囲にも学生スポーツというステージでは輝けなくても、社会の次のステージで立派に事を成してきた人物が多数存在する。大学としても広く社会で活躍する人材の育成こそが教育の使命であると考えれば、戦績とは別のところに意義を見いだすことができるはずだ。

我が身を振り返れば、早大競走部で1年冬の青梅マラソンに出て手応えのあるレースができたものの、夢見た箱根駅伝のメンバー入りは最後まで果たせなかった。努力を重ねた上で繰り返す成功と失敗、とりわけ健全な負けは、長い目でみると甘美な勝利の数倍の意味を持っている。

(プロトレイルランナー 鏑木毅)

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