琵琶湖押さえた信長の夢 大溝城跡(もっと関西)
時の回廊

2018/5/30 17:00
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琵琶湖西岸の中央部、乙女ケ池と呼ばれる内湖のほとりに武骨な石垣が残っている。大溝城跡(滋賀県高島市)の天守台だ。本格的に石垣が導入され始めた近世城郭の初期の姿をとどめる。最近の調査で湖水を取り込んだ水城(みずじろ)の解明が進んできた。

大溝城跡に残る天守台の石垣。算木積で角を補強した(滋賀県高島市)

大溝城跡に残る天守台の石垣。算木積で角を補強した(滋賀県高島市)

織田信長は坂本、長浜、安土に続いて大溝に城を築き、湖岸の要衝を結ぶ城郭網を完成させた。4地点で軍事的、経済的に琵琶湖水運を押さえるためだ。城郭に詳しい滋賀県立大学の中井均教授は「4つの城は琵琶湖という巨大な堀を共有し、水運でつながっていた。『後ろ堅固』という背後を堀で固める手法で守備を前面に集中できる利点もあった」という。

■明智光秀が設計

安土城の築城開始から2年、1578(天正6)年に信長は甥(おい)の織田信澄(のぶずみ)に大溝築城を命じた。坂本城主だった明智光秀が設計したとされる。その後、丹羽長秀や京極高次らが入れ替わり入城した。廃城になった時期は諸説あるが、17世紀初めには天守は既になかったようだ。

大溝城はどのような城だったのか。ヒントになるのが本丸の石垣だ。2017年度の高島市の発掘調査では北端と西端の地中から石垣を発見。石垣はその後埋め戻されたが、湖水を取り込んだ水城だった実態がわかってきた。城の主要な区画で、天守台がある本丸は正方形に近い形だった。発掘を担当した高島市文化財課の宮崎雅充主任は「湖水と接していた石垣が確認できた。本丸の規模は南北57メートル、東西52メートルで、北側の石垣は地形に合わせてやや屈曲して並んでいた」という。

江戸時代に入って描かれた「大溝城下古図」(高島歴史民俗資料館蔵)では、本丸を囲む石垣が地表より高く積まれているのがわかる。中井教授は「両側を石垣で固め、石塁として防波堤の機能を持たせていたようだ。石垣の導入でこの水城ができた」と指摘する。石塁は幅2~3メートル、高さ1~1.5メートル程度と推定する。

本丸の地表は湖面から1メートルほどの高さしかない。現代のように堰(せき)で琵琶湖の水位を調整できない当時、湖面の上下動はかなり大きかったとみられる。中世の城郭に使われた土塁では、波の浸食に耐えられなかっただろう。

■高い石垣技術

大溝城下古図には本丸の石垣が描かれている(複写、滋賀県高島市の高島歴史民俗資料館)

大溝城下古図には本丸の石垣が描かれている(複写、滋賀県高島市の高島歴史民俗資料館)

天守台の石垣からは技術力の高さが見て取れる。石垣は本丸の南東隅に鎮座する。南北29メートル、東西24メートル。最も高い部分は6.5メートルあり、北側が一段低い。天守台南西隅にある石段は江戸時代以降に付けられたようだ。宮崎主任は「未加工の自然石を積み上げた野面積(のづらづみ)で、石垣の傾斜は緩やか。天正期の特徴がこれほど分かりやすい石垣は珍しい」と説明する。

最も保存状態がいい西側中央部に突出する石垣は、直方体の石を長短交互に積み上げた算木積(さんぎづみ)。石垣の角を補強する方法が近世城郭の当初から採用されていた。

安土城から始まる近世城郭の3要素は石垣、天守、瓦といわれる。従来の石垣は斜面の土留めが目的だったが、重い建築物を支える土台としての機能が求められるようになった。

信長は城づくりの技術者集団を抱え、新たな城の石垣や天守、瓦の有無まで指示したという。琵琶湖の城郭ネットワークを作り上げた技術力と経済力が、革命児を天下統一の手前まで押し上げた。湖畔にたたずむ石垣はそれを教えてくれる。

文 大阪地方部 木下修臣

写真 大岡敦

《交通・ガイド》大溝城跡はJR湖西線の近江高島駅から徒歩5分。周辺は「大溝の水辺景観」として国の重要文化的景観に指定された。近くにある乙女ケ池には橋がかかり、遊歩道も整備されている。高島歴史民俗資料館は同駅からバスと徒歩で10分。午前9時から午後4時半まで開館。月・火曜と祝日休館。

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