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足踏みするヤフー(1) 痛恨の3つのミス

ヤフーが正念場を迎えている。日本のインターネット企業の第1世代として国内では圧倒的な地位を築いたが、創業20年をすぎて停滞感が漂う。4月に発足した新経営体制はどんな再生の絵を描くのか。4回連載で検証する。(杉本貴司、大西綾)

巨人になれず、ベンチャーから追い上げ

1月24日、ヤフーは6年間社長を務めた宮坂学の退任を発表し、後任に副社長兼最高執行責任者(COO)の川辺健太郎を昇格させると発表した。そのひと月あまり前の昨年12月13日、川辺は金沢市で若手起業家が集まるセミナーの壇上に立っていた。

「ベンチャー企業は大企業を倒すことができるのか。私は倒せると思います」。川辺はこんな話を切り出した。「大企業」とはほかでもないヤフーのことを指している。このとき、川辺はすでに宮坂から内々に社長就任を打診されていた。トップ就任を前になぜ未来のライバルたちに手の内をさらすのか。そこには今のヤフーへの自戒がある。

「ヤフーはベンチャーによる突き上げとテックジャイアントの板挟みにあっている」。川辺は今の危機感をこう表現してみせた。国内では今なお存在感を誇るが、米アマゾン・ドット・コムなど「プラットフォーマー」と呼ばれるグローバルな巨人にはなれず、一方でメルカリやLINEといった新興勢力の台頭を許した。2018年3月期の売上高は5%の伸びにとどまり、純利益は一時的な影響もあったとはいえ2年連続で減益となった。1996年の創業以来、増収増益を続けた「成長神話」は途切れ、足踏み状態に陥っている。

巨人と新興勢力に挟み撃ちにされる状況は、実はヤフー自らがつくりだしたものだった。その過程を検証すると、いくつかのミスが浮かび上がる。

フェイスブックとの幻の合弁

フェイスブック最高経営責任者(CEO)のマーク・ザッカーバーグが、ヤフーの親会社であるソフトバンクに接触してきたのは2008年のことだ。その年の5月に来日して講演したザッカーバーグは、その直後に日本語版を公開したが、思うようにユーザーが伸びていなかった。そこでソフトバンクに合弁を持ちかけた。

ソフトバンクの孫正義は、フェイスブックのパートナーとして、グループ内からヤフーを指名した。実現すればヤフーはSNS(交流サイト)という強力な武器を手にすることになる。

だが、合弁への出資比率を巡って折り合わず時間ばかりが過ぎる。業を煮やしたザッカーバーグはヤフー側の交渉担当者だった児玉太郎を地元シリコンバレーの本社に呼んだ。「それなら君がやってくれないか」。ザッカーバーグは児玉をヤフーから引き抜き、単独での日本進出に切り替えた。児玉の陣頭指揮のもとフェイスブックは日本でも爆発的に成長した。

ヤフーでモバイル向け技術を開発していた村上臣氏

「これは相当やばいことになったな」。ヤフーでモバイル事業を任されていた村上臣はいらだちを隠せなかった。フェイスブックに続きLINEが台頭してきたからだ。村上はヤフー社内で度々、「サービスをパソコン中心からスマホに移行しなければ手遅れになる」と警告を発していた。だが当時の経営陣に聞き入れられず、業を煮やして2011年4月に同社を退社していたのだ。

 この直後、孫はヤフー経営陣の刷新を決断した。社長には当時44歳の宮坂学が就任し、その相棒として川辺が指名された。翌12年に副社長兼COOに抜てきされた川辺が真っ先に声をかけたのが、モバイルを熟知する村上だった。

孫氏による経営陣刷新により、川辺氏は副社長兼COOに抜擢される

「なあ臣、戻ってこいよ」。川辺にとって村上は、学生時代にサンバグループを結成して以来の盟友だった。村上のミッションはLINEへの対抗だ。ユーザーがスマホを手に取ったときに最初に使うアプリ。村上はそれを「起点」と呼ぶ。ヤフーはパソコン時代に起点の地位を勝ち取ったが、スマホではその地位をLINEやフェイスブックに取られかけていた。ヤフーに復帰した村上は、さっそく韓国に飛んだ。

「日本で一緒にLINEを倒しませんか」。村上が提携を申し込んだ相手はキム・ボムス。韓国ネット大手ハンゲーム(現ネイバー)の創業者だ。キムはその後、ハンゲームを飛び出しネット企業のカカオを創設した。村上とキムは2012年に日本でSNS「カカオトーク」の共同事業を始める。遅まきながらSNSに本格進出したのだが、1年のビハインドは大きかった。

メルカリ山田氏の告白

SNS戦争に敗れたヤフーは、後手後手に回る癖がついたかのように新たなライバルの登場を許す。第2のミスは、村上自身が痛恨の思いで語る。

「進太郎さん、次は何をやるんですか?」。2012年のある日、村上は旧知の山田進太郎にメッセージを送った。山田は自ら創業したネット企業ウノウを米ゲーム大手のジンガに売却。同年初めにジンガを退職し、世界一周の放浪の旅に出ていた。村上にとっては先輩起業家として一目を置く存在だ。

山田進太郎氏は「メルカリ」の構想を打ち明けていた

「フリマでEC(電子商取引)をやろうかな、と。日本でね」。山田は放浪の旅の中で、スマホを使ったフリーマーケットサイトを立ち上げる構想を描いていた。それを気心の知れた村上には打ち明けていたのだ。

「でも、それってヤフオクのライバルってことじゃん」。村上はヤフーのEコマース事業の柱であるオークションの競合企業を、山田が興そうとしていることに気づいた。「まあ、大丈夫か。うちの連中もバカじゃないし」

村上の目算は見事に外れた。帰国した山田は2013年にメルカリを創業。あっという間にネット通販のプラットフォーマーへと成長していった。ヤフーは対抗策としてEコマースへの出店無料を打ち出すが、オークション事業をメルカリのようなプラットフォーマーに育てることには失敗した。

メルカリ創業時、ヤフーから多くの人材が引き抜かれたという。村上の配下にいた人々もごっそり移ったという。

「そのたびに『また引っこ抜きやがって』という思いはありましたけど、進太郎さんは誰の意見でもちゃんと聞くし良い部分を取る柔軟さや胆力はすごい。人がどんどん集まるのは分かる気がしますよ」(村上)

悲願の「日米合併」、あっさり断念

プラットフォーマーの座を目指す上で、ヤフーには決定的な制約がある。ブランド使用が国内に限られていることだ。実はヤフーには海外展開のために残されていた糸口があったのだが、みすみす逃す。これが3つ目のミスだ。

2016年初めに願ってもないチャンスが訪れる。米ヤフーが経営危機に陥り、身売りを模索し始めたのだ。

米ヤフーが米証券取引委員会(SEC)に提出した資料によると、同年2月25日、ソフトバンク・ヤフー両社の代表者が米ヤフーCEO(当時)のマリッサ・メイヤーと会談し、日米ヤフーの対等合併を提案した。ソフトバンク幹部によると、この交渉を主導したのは当時ソフトバンク副社長とヤフー会長を兼務していたニケシュ・アローラだった。

アローラは孫が自身の後継者候補として14年に米グーグルから引き抜いた人物。同じくグーグルにいたメイヤーとは旧知の仲だった。ただ、アローラが出した日米の対等合併案は、米ヤフーには受け入れがたかった。メイヤーが難色を示すと、アローラはあっさりと交渉の席から降りた。ソフトバンクグループ全体の首脳の立場から、ヤフーの世界進出にそれ以上の価値はないと判断したのだ。

日米合併構想がついえるとヤフー経営陣は狙いをアジアに定め、ヤフー台湾の買収に乗り出した。交渉の詳細は不明だが条件が折り合わず、アジア進出も断念した。

「やっぱりヤフーじゃ海外で仕事はできないか」。悲願の海外進出が幻に終わったのを見届け、村上は17年夏、再度ヤフーを退社することを決めた。村上が転職したのは、世界的なビジネス向け交流サイト、リンクトインの日本代表だ。

「ヤフーはベンチャーによる突き上げとテックジャイアントの板挟みにあっている」。川辺新社長は今の危機感をこう表現する。

「逆のことをしかけていく」

場面を冒頭の講演に戻そう。6月にヤフー社長に就任する川辺は「ヤフーの倒し方」として、3つの秘策を披露していた。「局地戦に持ち込む」「情報を隠す」「とがった人材を集める」――。

これをすべて受動態にすれば、そのままヤフーの敗因になる。ヤフーにとってフリマはEコマース事業の一部に過ぎない。つまり局地戦。そこに落とし穴があった。フェイスブックからの誘い、メルカリの動き。巨大化した組織はこうした情報に敏感に反応する触角を失っていた。そして動きが鈍くなった巨体から村上やその部下らが流出した。

「僕が語った倒し方の逆のことを、これからしかけていきます」。川辺はこう話す。ヤフーはみすみす見逃したプラットフォーマーの地位をものにできるのか。キーワードは「データの力」だ。

=敬称略、つづく

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