南海浄土へ 帰らぬ船出 補陀洛山寺の渡海船(もっと関西) - 日本経済新聞
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南海浄土へ 帰らぬ船出 補陀洛山寺の渡海船(もっと関西)

時の回廊

こんな小舟で大海原に放り出されるのか――。誰もがそう思うに違いない。補陀洛(ふだらく)山寺の境内で展示する「補陀洛渡海船」の全長は、わずか6メートルほど。かつてこの寺の住職は60歳ごろになると、帰らぬ旅へと船出した。目指したのは南方海上の観音浄土。補陀洛渡海と呼ばれた習わしだ。

甲板の小さな船室を四方から鳥居が囲む。内部は大人が横になるのがやっとの広さだろう。渡海僧は30日分の食料と灯油だけを携え乗り込んだ。外に出られないよう、扉は外からくぎで打ち付けたという。

自らを犠牲に

高木亮享住職は「平安期から江戸期まで二十数回の渡海が記録されている」という。当時は究極の苦行と尊ばれ、僧侶以外で渡海する修行者もいた。

展示する渡海船は絵図や文献をもとに1993年に復元された。実際に海上を試験的に航行したこともある。主に参考にされた「那智山宮曼荼羅(まんだら)」をじっくり見てみよう。熊野三山の一つ、熊野那智大社の霊験を明示するため、16世紀に描かれた絵図だ。

補陀洛渡海は曼荼羅の右下で詳しく説明される。大きな鳥居の背後に建つのが補陀洛山寺だ。鳥居の前が那智の浜。眼前の熊野灘に浮かぶ船のうち、白い帆を張った船が渡海船で、2隻の船に綱で引かれる。渡海船を強調するため、両者は逆の位置に描かれている。

鳥居の下には、今まさに渡海する3人の僧侶。旗を掲げた葬送の列で送られている。船の行く手にはいくつかの島。一番左が帆立島で、この辺りで渡海船は帆を揚げた。1つ飛んで綱切島。ここで渡海船は綱を切られ、黒潮に乗ってどこまでも流されていった。

補陀洛山寺は現在、海岸から300メートルほど奥まった場所にある。本堂は江戸期に台風で損壊した後、90年に再建された。高木住職は「当時、敷地を掘ると丸い海岸の石が無数に出土した」と振り返る。曼荼羅に描かれたように、補陀洛山寺はかつて那智の浜に面していたのだ。

帆立島と綱切島の間の島は金光坊島という。江戸期の文献によると、金光坊は16世紀に実在した僧侶。渡海に出たが船から脱出し、付近の島に上陸した。しかし役人に捕らわれ、そのまま海に投げ込まれた。これ以降、この島を金光坊島と呼ぶようになったという。これを機に渡海は公的に禁止され、同寺の代々の住職が亡くなると遺体を船で水葬する形に改められた。

補陀洛とは「観音浄土」などと解釈できるサンスクリット語「ポータラカ」の音訳。古代インドで南方海上にあると考えられた浄土だ。日本でも南の海のかなたに浄土が存在すると考えられ、高知の足摺岬や室戸岬などにも渡海の記録が残る。だが、最も渡海が盛んだったのが那智だった。

霊験に欠かせず

熊野三山の中で最も南に位置する那智大社は、南方海上の観音浄土と対比された。那智大社の主祭神は神仏習合の考えから観音菩薩の化身とされた。「海のかなたに理想郷があるという自然信仰が仏教の浄土思想と結びつき、那智で補陀洛渡海が定着したのでしょう」。和歌山県立博物館の竹中康彦学芸課長は言う。補陀洛渡海が那智山宮曼荼羅に詳しく描かれたのも、那智の霊験に欠かせない要素だったためだ。

高木住職は「曼荼羅に描かれた島々は今も熊野灘に浮かんでいます」とも教えてくれた。補陀洛山寺から歩いて那智の浜へ出た。広い海を見渡すと、島というほどでもないが岩礁が点在する。どれがどの島だろうか。かつての補陀洛山寺の境内からは、海へと消えゆく渡海船の姿が眺められたに違いない。

文 大阪・文化担当 田村広済

写真 松浦弘昌

交通・ガイド》補陀洛山寺はJR紀勢本線那智駅徒歩3分ほど。参拝は午前8時半から午後4時まで。境内には渡海上人の墓や、渡海者たちの名を刻んだ補陀洛渡海記念碑などが見られる。隣接する熊野三所大神社も合わせて見学したい。

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