五重塔との景観 再び 猿沢池 奈良市(もっと関西)
時の回廊

2018/5/2 17:00
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奈良市の猿沢池周辺には江戸期、旅籠(はたご)が多く立ち並んだ。すぐ北側にある興福寺の五重塔と池との構図は旅人らの目を楽しませた。明治の頃には盛んに絵はがきの題材となり、古都を代表する景観の一つとして知られた。近年、この眺望を1922年の名勝指定当時の姿に戻す取り組みが進んでいる。

■伝説や物語多数

興福寺の五重塔(左奥)との構図で楽しまれてきた猿沢池

興福寺の五重塔(左奥)との構図で楽しまれてきた猿沢池

猿沢池は天平期、興福寺の伽藍(がらん)がある高台から南側に下がった湿地を整備した人工の池と伝わる。「興福寺流記(るき)」には「佐努作波(さぬさは)」との表記があり、興福寺の多川良俊執事長は「『水がそそぐ沢』といった意味で、瓦を焼くための土の採掘も行われたようだ」と話す。

「猿沢」に転じたのは、猿が釈迦のために掘ったとされるインドの池にちなんだもの、猿を葬った「猿塚」があったことから、などの説がある。周囲約360メートルの大きくはない池だが、たたずまいは古来、それほど変わってはいないようだ。池には不思議な伝説がいくつも伝わる。

帝の寵愛(ちょうあい)が薄れたことを苦に身投げした采女(うねめ)の話は、平安期の大和物語や枕草子に登場。現在も毎秋行われる「采女祭」の起源となった。1人の僧の嘘がもとで人々の目の前で池から龍(りゅう)が昇るという芥川龍之介の「龍」は、13世紀の宇治拾遺物語がベースだ。「猿沢池の月」は室町期の僧が記した「南都八景」の1つに選ばれた。

周辺は大坂と奈良を結ぶ街道の終点で、多くの人が行き交った。奈良の観光地化が進んだのは江戸前期の元禄時代。東大寺の大仏が修理復興されたのがきっかけで、1692年の開眼供養には実に30万人が参拝したとされる。

大坂を早朝にたつと、ちょうど夕方、奈良に到着する。小刀屋善助、印判屋庄右衛門といった旅籠のにぎわいは落語にも登場。奈良の観光史に詳しい市埋蔵文化財調査センター元所長の森下恵介さんは「伊勢に行くにせよ猿沢池付近で1泊するのが定番だった。翌朝、春日大社、若草山、東大寺、興福寺を観光するルートをたどった」と話す。

昭和初期のものとみられる絵はがき。奈良県がパンフレットに使っている

昭和初期のものとみられる絵はがき。奈良県がパンフレットに使っている

だが、奈良のまちは明治維新で危機に直面する。神仏分離や上知令が引き金となり、興福寺は廃寺同然に。困り果てた町民らからの要望もあって1880年、奈良公園が誕生した。

■剪定で眺望確保

時はたち、園内の木は成長。猿沢池と興福寺境内の間の傾斜地にはいつの間にか、かつてはなかったとみられる広葉樹や外来種が茂り、池畔から五重塔がほとんど見えない状態になった。管理者にあたる奈良県は2014年、このエリアに関する「奈良公園植栽計画」を策定。その一環として名勝指定当時の景観をよみがえらせようとする取り組みが始まった。

具体的には外来樹や眺望の支障となる広葉樹は伐採し、マツ類は「透かし剪定(せんてい)」を行う。新たにマツやサクラを植栽する。すでに整備は始まっており、眺望はひところよりはかなり改善した。

交通機関が発達し、奈良は大阪や京都から日帰りできる場所となった。だが、訪れた人が求めるものは不変だ。「江戸期のお参りや明治以降の宝物鑑賞など時代に応じて観光の目的は変わってきた。だが奈良の本質的な価値は、歴史の流れを感じられる美しさでは」と森下さん。取り戻されつつある景観が、そうしたものを表すことが望ましい。

文 奈良支局長 岡田直子

写真 山本博文

《交通・ガイド》近鉄奈良駅から徒歩約5分、JR奈良駅から徒歩約20分。池の周囲には枝垂れ柳が植えられていたが、2013年ごろ病害で一部が枯れるなどし、土壌を改良して植え替えを行った。また、外来種のアカミミガメが多数生息していることが問題となり、14年には池の水を抜く「かいぼり」が行われた。

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