2019年9月21日(土)

多摩川河川敷 レースの熱狂包んだ観客席跡
今昔まち話

2018/4/21 14:00
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多摩川にかかる東急東横線の鉄橋。その少し上流の河川敷にかつて、日本初の常設サーキットがあった。完成が約80年前だから、日本にモータリゼーションが訪れるよりだいぶ前のことだ。

「多摩川スピードウェイ」は全長1200メートルのオーバル(楕円)コース。1936年に完成し、同年報知新聞社主催で第1回全日本自動車競走大会が開かれた。3万人の観客が集まったとの記録がある。

レースは数年で中断した(1937年5月)=多摩川スピードウェイの会提供

レースは数年で中断した(1937年5月)=多摩川スピードウェイの会提供

日本の自動車産業は黎明(れいめい)期だった。メルセデスやフォードといった欧米の輸入車に交じって、日本の技術者が設計図もないまま見よう見まねでつくったレーシングカーが性能を競った。浜松で自動車修理工場を営んでいた本田宗一郎氏もその一人。自ら「ハママツ号」のハンドルを握ったが、他車と接触して横転する事故を起こし、リタイア。国産小型車部門では、中小企業、オオタ自動車の「オオタ号」が日産を抑え優勝した。

サーキットが熱狂に包まれたのはわずか数年だった。37年に始まった日中戦争が本格化し、レースは数年で中断する。戦後は自動車教習所やプロ野球日本ハムの練習場を経て、市民向け野球場に。今はコンクリートの観客席跡だけが往時の姿をとどめる。

多摩川スピードウェイ跡に残る観客席(川崎市)

多摩川スピードウェイ跡に残る観客席(川崎市)

2014年、埋もれていた歴史に光を当てようと、有志が「多摩川スピードウェイの会」を立ち上げた。会長の片山光夫さん(73)の父、豊氏もレースの運営にかかわった。戦後米国日産の初代社長を務め、名車フェアレディZの生みの親として知られる。

16年には会が寄付した記念プレートが敷地の一角に設置された。「ここで培われた技術や人脈が戦後になって花開いた。文化遺産として多くの人に知ってもらい、保存していかなければ」。片山さんらはこう願っている。

当時のレーシングカー 国産小型車部門で優勝した「オオタ号」の排気量は約750ccで、現在の軽自動車とほとんど変わらない。出力は20馬力ほどといまの市販車に比べてかなり非力だが、最高速度は時速100キロほどに達したとみられる。飛行機用のエンジンを搭載したり、輸入車のエンジンに過給器を付けたりと、出場者がそれぞれ工夫していた。エンジンの性能に比べ、タイヤやブレーキの性能が低かったという。
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