2018年7月22日(日)

町に巨石 秦氏の謎宿す 太秦の蛇塚古墳(もっと関西)
時の回廊

コラム(地域)
2018/4/11 17:00
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 京都市右京区太秦(うずまさ)の閑静な住宅街に巨石を積んだ横穴式石室が外形をさらしている。蛇塚古墳だ。畿内で最後に築造された前方後円墳の1つで、渡来系氏族・秦(はた)氏の首長を葬ったとみられる。大陸や朝鮮半島から先進文化を持ち込んだ渡来人が、なぜ日本独自の墳形にこだわったのだろうか。

最大で5メートルもある巨石を組み上げた蛇塚古墳の石室(京都市右京区)

最大で5メートルもある巨石を組み上げた蛇塚古墳の石室(京都市右京区)

■なぜ前方後円墳

 太秦の地は様々な顔で知られる。難読地名としてクイズでおなじみ。東映松竹が撮影所を構える映画の街として有名。広隆寺など秦氏ゆかりの歴史遺産が名高く、蛇塚のほかにも秦氏の墓とみられる前方後円墳や円墳が点在する。

 「昔は裏手に映画の撮影所があって、カツシン(俳優の故勝新太郎氏)がたばこを吸って休憩しているのがウチの2階からよく見えたよ」。こう振り返る蛇塚古墳保存会の和田幸重会長(76)の自宅玄関の向かいに、蛇塚古墳はある。

 墳丘は失われ、大小三十数個の巨石で築いた石室がむき出しになっている。玄室は長さ約7メートル、幅約4メートルの威容を誇り床面積では全国第4位。古代の大豪族、蘇我馬子の墓との説がある奈良・明日香の石舞台古墳(方墳、7世紀)の石室に規模や構造がよく似ている。

 全長約75メートルの前方後円墳だったと、周囲に住宅が立て込む前の地形図を元に考えられている。現在も、石室を囲んで前方後円形に家々が並んでいる様子が空撮写真を見るとよく分かる。

 築造年代は、墳丘の下から出土した土器などを手掛かりに6世紀末~7世紀前期とする見方が強い。推古天皇や聖徳太子の時代だ。

 畿内の豪族はこの時期、前方後円墳を築くのをやめて一斉に円墳や方墳へと切り替えた。古墳研究で知られる白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館前館長は「強い規制があった」と推察する。大陸では隋が中国を再統一して高句麗に侵攻していた。白石さんは「緊迫した海外情勢を受けて中央集権を進めるため、各地の豪族が連合して大王(天皇)を支えた従来の体制やその象徴である前方後円墳と決別した」とにらむ。

 そんな時勢に逆らって、なぜ太秦に前方後円墳が築かれたのか。今も研究者を悩ませている大きな謎だ。

住宅に囲まれた古墳を多くの見学者が訪れる(京都市右京区)

住宅に囲まれた古墳を多くの見学者が訪れる(京都市右京区)

 日本海から河川沿いに丹後、京都盆地を経て奈良へ至るルートの要衝であるこの地域に、秦氏が進出したのは5世紀後半。ただ「太秦の古代集落や古墳に渡来系の面影は薄い」(京都市文化財保護課の熊井亮介さん)。渡来人ゆかりの地で多数出土するミニチュアの炊飯具形土器や朝鮮半島系土器が、太秦ではほとんど見つからない。そもそも前方後円墳を渡来系の人々が築いた事例が珍しい。熊井さんは「すっかり日本に溶け込み、外来の要素が廃れたのでは」とみる。

■秦河勝の墓か

 白石さんは蛇塚の年代について近年、石室がよく似る石舞台に近い7世紀第2四半期と唱えた。このころの一族の長は軍事や外交で活躍した聖徳太子の側近、秦河勝(はたのかわかつ)。「蛇塚は河勝の墓の可能性がある」とみる一方、この時期では異例の前方後円墳築造は「例外的な事例と捉えるしかない。何か秦氏内部に特別な事情があったのかも」と話す。

 現在、蛇塚は和田さんら近隣住民による保存会が管理を受託している。「毎朝周りを掃き、週1回は草を引く。こまめにしたほうが楽だ」と和田さん。謎を秘めた石室を年に3千~4千人が訪れるという。

 文 大阪・文化担当 竹内義治

 写真 大岡敦

 《交通・見学》京福電鉄嵐山本線帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅から徒歩約5分。石室内部の見学は事前に京都市文化財保護課電話075・366・1498に申請の上、蛇塚古墳保存会にフェンスの鍵を開けてもらう。
 《参考資料》白石太一郎「太秦蛇塚古墳の造営時期」(橿原考古学研究所論集第十六、八木書店)などがある。

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