乾物問屋街 繁栄の面影 天満の蔵(もっと関西)
時の回廊
大阪市の天満橋から天神橋にかけての大川沿いには江戸時代から昭和初期にかけて天満青物市場が開設されていた。近郊で取れた野菜だけでなく、全国の乾物が船や荷車で運ばれて取引され、各地に流通していった。堂島の米市、下流の京町堀付近にあった雑喉場(ざこば)の魚市とともに「天下の台所」を担う存在だった。

市場の周辺には問屋や仲買人が集まる。天神橋北詰の西側、現在の北区菅原町一帯には乾物問屋街が生まれ、最盛期の大正時代には200軒を超えていたという。その面影を伝える白壁の蔵が点在している。
大阪市は歴史を生かした街づくりを地域と連携して進める「HOPEゾーン事業」で、古い街並みが残る地区の建物外観の改修などに補助金を出す修景を続けてきた。事業はこの3月末で終了する。菅原町を含む天満地区では10年前に協議会が設立され、18件の建物が対象となった。
浸水に備え高床
古い蔵の外観を新しくし、本社ビルも景観に配慮したデザインで建て直した乾物問屋・北村商店の北村弘一相談役は「商いの形は昔と様変わりしたが、蔵はずっと使い続けてきた。愛着がある」と話す。
住宅に付随する屋敷の蔵は一般的に細長い敷地の奥にあるのに対し、天満の蔵は通りに面している。1837年に起きた大塩平八郎の乱の際の焼き打ちをくぐり抜けた蔵もある。
菅原町の西側を南北に走る阪神高速道路の下にはかつて天満堀川が流れていた。このため、川に近い天満の蔵は浸水に備えて高床なのが特徴だ。北村商店の古い蔵の川側の土台部分は、川の水を遮らないよう、柱を囲わない足駄(あしだ)造りと呼ばれる構造になっている。
乾物商いの推移は、日本人の食生活の変化を映し出す。保存がしやすい乾物はかつて日本人の食生活に多く使われた食材だった。干瓢(かんぴょう)、干し椎茸(しいたけ)、海苔(のり)、昆布、凍り豆腐、凍りコンニャク、寒天、切り干し大根、ずいき、ひじき、干した山菜など多彩な乾物がつくられ、消費された。

「寒天は昔、日本の有力な輸出品だった。人工栽培で量産された干し椎茸も輸出で戦後日本の復興に貢献した。こうした歴史が忘れられているのは残念だ」と北村さん。乾物消費が減り、現在の乾物問屋の事業はゴマなどの輸入や加工販売が主体になっている。
街歩きで伝承
天満地区HOPEゾーン協議会の事務局長で、乾物問屋を営む後藤孝一さんは天満の蔵めぐりの街歩きイベントなどで参加者に歴史を語り継いでいる。昨年12月の街歩きでは乾物を使った料理を参加者に味わってもらった。「干瓢はもともと関西が主な産地で、昔は『木津』と呼ばれていた。歴史を知ることで乾物を見直してもらえたらいい」と語る。
ゴマを主に扱う和田萬商店は江戸時代に建てられた蔵の外観だけでなく内部も改修し、ゴマ製品の販売店に模様替えした。落ち着いた空間を活用し、クラシックのミニコンサートやゴマの加工教室、乾物料理の試食会などを開いている。
和田武大専務は「蔵の土壁が厚さ45センチもあるのに驚く人が多い。防火に有効なだけでなく、温度や湿度の変化を少なくできる。乾物の保管に適した構造になっている」と説明する。
現存する蔵の数は少ないが、菅原町を歩けば、天下の台所の歴史の一端をうかがい知ることができる。
文 編集委員 堀田昇吾
写真 浦田晃之介
《交通・ガイド》菅原町は京阪、大阪市営地下鉄の北浜駅から難波橋を北側に渡って徒歩約6分。難波橋北詰から天神橋北詰の間の東西の通り沿いに「HOPEゾーン事業」で修景した蔵や住宅が点在する。
天神橋から天満橋の間の大川沿いにある南天満公園には「天満青物市場跡」の石碑や市場を歌詞に入れた「天満の子守歌」の歌碑がある。