2019年5月24日(金)

中世 外敵防ぐ環濠都市 堺に残る橋 隆盛の跡(もっと関西)
とことんサーチ

2018/3/22 17:00
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中世に「東洋のベニス」と呼ばれ、屈指の大都市として繁栄を極めた堺。1615年の大坂夏の陣や、第2次大戦中の大空襲で焼け野原となった歴史も併せ持つ。隆盛を誇った往時の名残と言えば、外敵を防ぐため室町時代に築かれた環濠(かんごう)という堀だ。その痕跡をたどり、中世の面影を探ってみた。

■「生き証人」地元が保存

環濠は室町時代に大内義弘が幕府との戦(いくさ)に備え、町の周りに巡らせた堀だ。豊臣秀吉がいったん埋め戻したが、江戸時代に元の位置より外側に再度掘られた。現在、市街を囲む環濠は一部が残るだけだ。戦後になって東側と北側は埋め立てられ、阪神高速道路などに姿を変えた。

そんな堺の町を歩いていると、高速の高架横にある土居川公園で不思議な橋に遭遇した。遠目には何の変哲もない橋に見えるが、近付くと橋の下に水が流れていない。平らな地面に橋脚のない石橋が置かれているだけだ。親柱には「極楽橋」と刻まれていた。

「極楽橋は中世の堺が環濠都市だった名残です」。かつて堺市博物館の副館長を務めた中井正弘・太成学院大学客員教授に尋ねたところ、こう教えてくれた。

戦後に埋め立てられた環濠には30前後の橋があったとされる。中井氏によると、1970年の大阪万博に先立って高速道路と一般道の整備が進み、環濠の東側が突貫工事によって埋め立てられた。

ほとんどの橋は撤去されたが、高台の墓地への道筋となっていた極楽橋は「神罰を恐れてか、堺市が近くの公園に保存した」(中井氏)という。極楽橋は中世以降の堺が環濠に守られてきたことを示す「生き証人」というわけだ。

50年前の新聞を調べると、極楽橋より南にある「翁(おきな)橋」「文殊橋」にも保存の動きが報じられていた。ミノルタカメラ(現コニカミノルタ)が翁橋の保存に名乗りを上げていたと知り、同社の堺事業所に問い合わせた。同事業所は80年代半ばにヒットしたオートフォーカス一眼レフカメラ「α―7000」を世に送り出したことでも知られる。

半世紀前の話だけに空振りも覚悟したが、総務担当の田中つたよ課長から「はい。確かに敷地内の庭園にあります」とうれしい答えが返ってきた。

田中さんの案内で庭園に向かうと、石造りの翁橋がくぼ地にひっそりと架かっていた。極楽橋と違い、橋脚もしっかり残っている。160年以上前に造られたとは思えないほど、保存状態も良い。田中さんは「外部からの見学は年に数人。市民にもあまり知られていない」と残念がる。

では、知恵の神様の文殊菩薩(ぼさつ)がある家原寺へつながるため名付けられたとされる文殊橋は残っていないだろうか。手を尽くして探したが、行方は分からずじまい。かつての環濠沿いを歩いても文殊橋は見つからなかったが「大小路橋」「東住吉橋」の親柱を運良く発見できた。まだ草むらを探せば別の橋が隠れていそうだ。

■水都復活へ観光振興

隆盛の面影を残すのは環濠だけでない。かつて南蛮貿易で潤った堺港は、1704年の大和川付け替え工事で土砂が堆積するという打撃を受けた。現在は堺泉北港に港湾機能が移ったが、現存する国内最古の木造灯台「旧堺灯台」が往時をしのばせる。1877年に完成し、約18キロ先まで光が届いたという。

灯台から見える壁画「浪漫やさかい」は高さ11メートル、幅155メートルと国内最大級の規模とされる。中世に南蛮船が来港した様子が描かれている。

堺市は2019年夏に仁徳天皇陵古墳など「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の世界文化遺産登録を目指し、観光振興に力を入れている。竹山修身市長は「100年の計で環濠を復元し、水辺の景色を取り戻したい」と話す。忘れ去られがちな環濠と橋の歴史を多くの観光客に伝えることができれば「水都復活」の手掛かりになるかもしれない。

(堺支局長 小島基秀)

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