2018年6月23日(土)

三尊像 祈り800年の重み 天野山金剛寺(もっと関西)
時の回廊

コラム(地域)
2018/3/14 17:00
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 大阪府河内長野市にある名刹、天野山金剛寺の金堂(国重要文化財)が9年がかりの解体修理を終え、落慶法要が27日、営まれる。堂内の三尊像は2017年、国宝に昇格。金堂と並行して行った修理で新発見があり、改めて評価が高まった。春には境内を彩る桜を愛(め)でに多くの参拝者が訪れるが、慶事が重なる今年はにぎわいが一層増しそうだ。

(左から)降三世明王坐像、大日如来坐像、不動明王坐像の三尊像は昨年、国宝となった

(左から)降三世明王坐像、大日如来坐像、不動明王坐像の三尊像は昨年、国宝となった

 今回の修理で金堂の外装は色鮮やかに塗り直された。現在の威容が整った慶長年間(1600年前後)の大改修後の姿を復元したという。座主の堀智真さんは「大修理は元禄年間に実施してから約300年ぶりだが、思ったよりは傷んでいなかった」と説明する。

 寒さの残る堂内に入ると、本尊の木造大日如来坐像(ざぞう)が木造不動明王坐像、木造降三世(ごうざんぜ)明王坐像を従えてそびえていた。金色に輝く大日如来は光背や台座を含めると高さ6メートルに達する。瞑想(めいそう)するかのような穏やかな表情、流麗な衣紋。平安末期の特徴を備え、天皇家や上級貴族と関わりが深かった仏師の手によると考えられている。

■快慶の高弟作

 脇侍の不動明王と降三世明王の両坐像も像高2メートルを超す。文化庁の奥健夫・主任文化財調査官は「曼荼羅(まんだら)的な構成の巨像群が堂宇と共に完成時の姿をとどめる貴重な例。この時期を代表する遺品だ」と解説する。

 これら三尊像は京都と奈良の国立博物館で修理された。新発見があったのは不動明王坐像。快慶の高弟、行快(ぎょうかい)が1234年に造ったとの墨書が胎内に残っていた。「まさかと思った」と奥主任調査官。「明治期にも修理されたが墨書の記録はない。何もないと思っていた」。降三世明王は素材や造りが共通し、同じく行快の作と考えられる。

鮮やかな色彩がよみがえった金堂

鮮やかな色彩がよみがえった金堂

 これまで脇侍は、不動明王の「造形の硬さ」を理由に14世紀の南北朝期か鎌倉後期ごろの作とみられていた。確かに首の付き方や胸、腰の形がぎこちない。奥主任調査官は「行快は快慶の助手を務めたことこそあれ、大型像の造立を指揮した経験に乏しかったのでは」と推察する。次に取りかかったとみられる降三世明王は、手慣れたのか「格段の出来栄え」という。

 三尊像がおよそ半世紀にわたって順次造りそろえられた様子も、記録と照らし合わせて明らかになった。同寺は平安末期、真言僧の阿観(あかん)が後白河法皇の妹、八条院の帰依を得て中興し伽藍(がらん)を整備した。金堂は1178年創建とされ、そのころ大日如来坐像も造立。ただし台座や光背は未完成だった。その後、台座が改造されたのに続き、行快の手で脇侍が造られた。大日如来の光背の周縁部や天蓋の飛天も、行快が付加したと推察されている。

■戦火免れる

 その後、南北朝期に南朝、北朝双方の天皇や法皇が寺を行在所とし、動乱の舞台となった。戦火が多くの堂宇に及んで焼けたが、金堂と本尊は無事だった。

 今回の大修理を始めた先代座主、智範さんは4年前に竣工を待たず亡くなった。父の後を継いだ智真さんは「先代は『良い仏師が造ったから良い仏像なのではない。皆が拝み、思いがこもるから良い仏になる』と話していた。800年間拝まれ続けてきた重みを、これからも伝えていかなければ」と語る。落慶法要が営まれるのは智範さんの99回目の誕生日だ。

 文 大阪・文化担当 竹内義治

 写真 大岡敦

 《交通》南海電鉄、近鉄の河内長野駅から南海バスに乗り「天野山」下車。
 《特別公開》3月28日~4月18日、金堂落慶を記念して国宝の三尊像を特別公開する。入山料200円のほか特別拝観料800円。3月30日~4月1日には「金剛寺落慶祭」と題して、専門家の講演会や堀座主らのトークショー、雅楽奉納などを行う。

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