大川小の悲劇語り継ぐ 生き残った青年の決意
大震災7年

2018/3/10 11:29
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東日本大震災で児童74人が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校で、津波にのまれながらも奇跡的に助かった当時5年生の只野哲也さん(18)が今冬、「語り部」活動を始めた。自身が経験したつらい記憶を話すことで「津波の恐ろしさや命の尊さを訴えたい」と新たな一歩を踏み出した。4月からは進学する大学で災害救助ロボットの研究などに取り組む。

東日本大震災で児童74人が津波の犠牲となった宮城県石巻市大川小学校で、奇跡的に生還した当時5年生の只野哲也さん(18)。今冬、母校で「語り部」の活動を始めた(1月13日、宮城県石巻市)

東日本大震災で児童74人が津波の犠牲となった宮城県石巻市大川小学校で、奇跡的に生還した当時5年生の只野哲也さん(18)。今冬、母校で「語り部」の活動を始めた(1月13日、宮城県石巻市)

7年前の3月11日。終礼で教室にいた只野さんたちを突然、突き上げるような激しい揺れが襲った。児童らは校庭に避難。寒さと余震に泣き出す児童もいた。市の広報車などが高台避難を呼びかけるなか、我が子を迎えに来た保護者が「津波が来るから逃げて」と声をあげた。

低学年の児童もシイタケの栽培実習で登ったことがある裏山が校庭のすぐ近くにある。しかし裏山への避難は選択されず、地震発生から50分ほどが過ぎてようやく高台への避難が始まった。指示された行き先は「三角地帯」と呼ばれる北上川の堤防近くの道路だった。

語り部になる

「ここまで歩いたところで、前方の家から土煙が上がって、木材が砕けるようなすごい音が聞こえてきたのです」

茨城県から来た中高生に大川小が津波に襲われたときのことを話す只野哲也さん(右)(2月12日、宮城県石巻市)

茨城県から来た中高生に大川小が津波に襲われたときのことを話す只野哲也さん(右)(2月12日、宮城県石巻市)

今年2月12日、資料を手にした只野さんは茨城県から訪れた中高生に当時の状況を説明していた。学校を出て列の先頭で住宅街の路地を歩き始めたときにはすでに津波は北上川の堤防を越えて迫っていた。

茨城県から来た高校2年生の橋本錬さん(左、17)は、「僕たちのような県外の人間が来ていいのかという迷いもあった。しかし実際に来て見て聞いたことを、自分たちも帰ってからしっかり伝えたい」と話した(2月12日、宮城県石巻市)

茨城県から来た高校2年生の橋本錬さん(左、17)は、「僕たちのような県外の人間が来ていいのかという迷いもあった。しかし実際に来て見て聞いたことを、自分たちも帰ってからしっかり伝えたい」と話した(2月12日、宮城県石巻市)

「慌てて後ろ向きに全力で走りました。無我夢中で斜面の急な山を5メートルほど登ったところで、大勢の人に後ろから押されたような強い衝撃を受けました」

失神した。気がついた時にはずぶぬれで山腹に倒れていた。只野さんは大川小で奇跡的に生還した児童4人のうちの1人だ。

津波に襲われた直後の大川小学校の写真の展示(2月12日、宮城県石巻市)

津波に襲われた直後の大川小学校の写真の展示(2月12日、宮城県石巻市)

只野さんの説明を聞いていた高校生から校舎保存の是非について質問が出た。市は16年3月、津波の爪痕が残る校舎を「震災遺構」として保存することを決定したが、遺族の間では「保存」と「解体」で意見が分かれた。

保存を訴え続けた只野さんは「校舎が残ることで、こうしてみなさんにどれくらいの津波だったのか見てもらえる」「助かったはずの命がどうして亡くなってしまったのかということを忘れてほしくなかったからです」と話した。

さらに「校舎があれば帰ってこられる。命日の日に手を合わせる場所が必要なのです」と付け加えた。大川小や只野さんの自宅があった釜谷地区一帯は震災後、居住できない地域となった。

つらい思いを胸に

津波は同小3年で妹の未捺(みな)さん(当時9)、母のしろえさん(同41)、祖父の弘さん(同67)の命を奪った。

2011年3月下旬、被災後初めての登校日を迎え、大川小から約10キロ離れた別の小学校を訪れた5年生当時の只野さん。左は父の英昭さん(宮城県石巻市)

2011年3月下旬、被災後初めての登校日を迎え、大川小から約10キロ離れた別の小学校を訪れた5年生当時の只野さん。左は父の英昭さん(宮城県石巻市)

津波が押し寄せる直前、しろえさんは車で学校に来てくれた。いったん自宅に戻るというので、持っていたヘルメットを渡そうとすると「いいからかぶっていなさい」と言い、妹のランドセルだけ受け取り帰宅して津波に遭った。

只野さんはそのヘルメットを避難時に頭に着けていた。「ヘルメットをかぶっていなかったら、自分も危なかったかもしれない。母は消防団の道具を取りに自宅に向かったのだと思う」と責任感が強く、優しい母を思い出す。

また未捺さんは避難する際、自分と同じ列のどこかにいたはずだ。「自分も校庭にいたときは津波がここまで来るとは思えなかった」と、妹を救えなかったことを悔いる。

最愛の家族を失ったつらい思いを胸に、只野さんは語り部として経験を後世に伝えることを決心した。3月11日はしろえさんの誕生日でもある。これまで震災のことを話すのは大人とばかりだったという只野さんは「次代に伝えていく」と言い切る。

大学でも震災と関わる

大川小は仮設校舎などで授業を続けていたが、3月末に閉校する。2月24日に開かれた閉校式に出席した。「震災がなければ」との思いがよぎらないはずはないが、「雪が降るとソリで遊んだり、校庭でサッカーをしたり」と楽しい思い出もたくさんある。

石巻工業高校柔道部の部活動で汗を流す只野哲也さん。大川小に入学したころからずっと続けている(1月13日、宮城県石巻市)

石巻工業高校柔道部の部活動で汗を流す只野哲也さん。大川小に入学したころからずっと続けている(1月13日、宮城県石巻市)

3月1日、石巻工業高校を卒業した。大川小に入ったころから続けている柔道に打ち込んだ3年間だった。主将を務め、3年生のときには県大会で3位にもなった。「震災後の厳しいときにもいつも柔道が支えてくれた」と振り返る。

卒業証書を手に、3年間ともに柔道で汗を流した仲間と肩を組む只野さん。試合前にはいつも円陣を組み、部伝統の掛け声をかけていた。「気合い入れていくぞ!」「おう!」(1日、宮城県石巻市)

卒業証書を手に、3年間ともに柔道で汗を流した仲間と肩を組む只野さん。試合前にはいつも円陣を組み、部伝統の掛け声をかけていた。「気合い入れていくぞ!」「おう!」(1日、宮城県石巻市)

進学する東北学院大学では災害救助ロボットなどの研究に取り組む。「勉強面でもいろんな人と交流して、自分にないものを取り入れていく。柔道で学んだことを勉強でも生かしていきたい」と新生活を楽しみにしている。

(写真部 浅原敬一郎)

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