2019年4月26日(金)

2つの十津川 奈良・北海道1200キロ隔て「母子の村」(もっと関西)
とことんサーチ

2018/1/25 17:00
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奈良県十津川村と北海道新十津川町。明治時代に大水害に襲われた母村と、故郷を離れた人々が1200キロ隔てた北の大地を開拓して築いた町という関係にとどまらない。剣道などを通じ、100年を超える交流が続き、2011年の紀伊半島大水害で関係はさらに深まった。互いを「母子(おやこ)の村」と呼ぶほどに強い絆の淵源を探った。

JR札幌駅から北東へ特急で約50分。滝川駅に着くとしんしんと雪が降り、12月としては例年より早い70~80センチの積雪だ。滝川駅から西へ車で5分。石狩川橋を渡って町に入り、まず新十津川神社を参拝。本殿に「玉置神社」とあり、十津川村の玉置神社から分祀(ぶんし)された神社とわかる。町の区画を表す字には「吉野」「大和」など奈良でよく見る名称が並ぶ。

新十津川町は1889年(明治22年)に死者168人を出した十津川村大水害を機に4回にわたり村から移住した約2700人が開拓した。町章は村章と同じ菱(ひし)十字。村で行う毎夏の慰霊祭には町の代表が出席している。

他にも役場職員や青年の交流、小中学生交流事業、剣道の合同練習などを通じ交流を重ねてきた。町産業振興課の富田豊主幹は「母村では家族のように接してもらえる。子供が行った時も『富田さんのお子さん』と歓待してくれた」と話す。

交流が深まったのは1970年代から80年代。奈良県出身の児童文学作家、川村たかしが小説「新十津川物語」を書いた頃だ。主人公である少女、津田フキの苦難の移住と大自然の中での生活を描いた。90年代にNHKがドラマ化した。

町は90年に開基百年を記念してブロンズ製の「フキの像」を3体制作。一体は17歳、残り2体は移住する前の9歳の姿だ。17歳の像は町南西部の「ふるさと公園」イベント広場に設置。残る2体は奈良に贈られ、十津川村役場前と県庁5階の第1応接室にたたずむ。

「十津川村が母なる村なら奈良県は母なる県。奈良の歴史や文化を受け継ぎたいとの思いで県にも贈った」というのは当時職員として町役場に勤務していた熊田義信町長。「銅像は奈良の方角に向けられた」と振り返る。奈良の2体は北海道の方角へ向かい合う。

絆が強まったのが2011年9月の紀伊半島大水害。十津川村も大きな被害を受け死者6人行方不明6人を出した。当時町は職員3人をすぐに派遣。寄付金5千万円のほか町民の義援金や寄付金、議会の義援金を立て続けに送った。「新十津川町のみなさんが質実剛健の十津川魂を示してくださった。その思いを胸に復旧、復興にまい進した」(更谷慈禧村長)という。

十津川の質実剛健はどこから来るのだろうか。探っていくとその独特の歴史にたどりつく。十津川郷士は時代の節目節目で、剛健と呼ばれるにふさわしい活躍をしてきた。7世紀の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)について戦い租税を免除された。14世紀には南朝に忠誠を誓い護良親王を守護。江戸時代初期には豊臣派の一揆を制圧した。

幕末には朝廷から勤皇が認められ薩摩・長州藩などと並び京都御所警備の任に。「十津川郷士は素朴で純粋だが勇敢。維新の志士から信頼された」と郷土史研究家で村の教育委員の松実豊繁氏。「孝明天皇が『郷士が警備の時は枕を高くして眠れる』と語ったとの逸話も残る」。大水害後の移住先もハワイ、福島県が候補にあがったが、対ロシアの北方防備にかなうとの意見から北海道になった。

十津川出身者の多くはこうした歴史を誇りに素朴な郷土愛を育んだ。それが出身者同士の絆を一層強くしているのかもしれない。

町と村、そして奈良県は昨年8月、特産品の販促や観光振興で連携協定を結び、県と村は町の農業関連の特産品の販売を始めた。県の担当者は「奈良県は農業再生が急務。町の優れた農業技術やノウハウを吸収できるような連携に発展してほしい」と期待する。

郷土愛を背景に"母子の村"が互いを補う連携は地方創生のヒントにもなる。

(奈良支局長 浜部貴司)

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