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色ガラス ムラなく長く 佐竹ガラスの棒状加工(もっと関西)

ここに技あり

職人が持つ鉄棒の先には、水あめ状に溶けたガラスが朱色に光る。能楽師のすり足を思わせる足取りでそろり、そろりとガラスを細く長く引き伸ばす。ガラスを流す耐火レンガ製のレールは約20メートル。もう一人の職人が冷えて固まりつつあるガラス棒を引っ張り切断する。長さ約60センチ、鉛筆ほどの細さの真っすぐなガラス棒が積み上がっていく。

佐竹ガラス(大阪府和泉市)が製造する「色ガラス棒」の「棒引き」と呼ばれる工程だ。担当する田辺義仁さん(39)は「色の種類などによりガラスの硬さが違い、歩く速さも変える。毎日が勉強」と表情を引き締める。波打ったり、太さが均一でなかったりすると選別され、再び原料として溶かされる。

同社は色ガラス棒を国内で唯一、戦前から製造する。一般にはなじみの薄い製品だが、干支(えと)の置物やビーズなど、ガラス工芸品の材料になる。バーナーで加熱し、あめ細工のように曲げたり切ったりして加工する。

1色のガラス棒を作るのに丸1日かける。前の日からケイ砂や酸化ナトリウムといったガラスの主原料を約12時間、セ氏1300度ほどで熱し溶かす。色づけを担当する職人は早朝5時ごろから溶けたガラスに金属を混ぜ合わせる。化学反応で色を付けるためで、赤なら金やセリウム、銅を加え、紫ならマンガンやニッケルを調合する。

この色づけが1番難しい。決められた量の材料を入れたと思っても、その時々で発色が微妙に違ってくるという。佐竹保彦社長(71)は「勘がいる作業。少なくとも10年の経験が必要だ」と語る。

明治末ごろ、和泉市に人造真珠技術が持ち込まれ一大産地となった。ガラス玉に魚のうろこを塗りつける方法だったという。ガラス棒はその玉の材料として作られ始めた。同社の創業は1927年。当時のままの作業場は国の登録有形文化財になっている。

50年代ごろには市内にガラス棒工場は十数社あり、周辺に工芸品を作る会社も多かった。輸出用の工芸品が売れ、ガラス細工職人の年収はサラリーマンの10倍と言われていたという。こうした会社は徐々に減り、ガラス棒工場も相次ぎ廃業。同社は160種類もの色をそろえることを強みに生き残った。

現在、製造にあたる職人は5人。取引先は趣味などでガラス細工を作る個人が8割を占め、海外のジュエリー作家にも愛用されている。ガラス棒はベネチアンガラスで有名なイタリアなども産地だが、同社のものは溶ける温度が低く加工しやすいのが特徴だ。市場環境が変わる中、ガラス棒のように細くとも真っすぐに、技術の火を守っている。

文 大阪・文化担当 西原幹喜

写真 松浦弘昌

 カメラマンひとこと 職人が溶けたガラスをくいにかけ、細い棒になるよう引き始める。長く伸びる様子を捉えるためカメラを低く構えると、固まったばかりのガラスの熱を間近に感じる。歴史を感じる木造の建物内は薄暗いが、雰囲気を生かすためにストロボのスイッチを切った。ガラスを引く職人の静かな動きに合わせ、息を止めて慎重にシャッターを切った。

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