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川崎がJ1初Vで証明した3つのこと(前編)

武田信平・前会長に聞く

 昨季の明治安田生命J1リーグ。2017年12月2日の最終節で劇的な逆転優勝を遂げた川崎フロンターレを感無量の面持ちで見詰めた人がいる。2000年12月から15年4月まで川崎の社長、それから1年間は会長としてクラブの発展に尽力した武田信平さん(68)だ。手塩にかけたクラブの歩みを振り返ってもらった。(聞き手は武智幸徳)
武田信平さん

「優勝が決まるまで一瞬、間が空いた。磐田と戦っていた首位鹿島の結果次第だったから。選手がピッチの中で喜んでいるのを見て、優勝したとわかったが、あまり実感が湧かず、半分冷静な自分がいた。客席からピッチに下りて、選手やスタッフの中に入れてもらって優勝記念のTシャツを着せられて、やっとうれしさがこみ上げてきた。悲願のJ1制覇まで憲剛(中村)は15年かかったけれど、信平は17年だからね。まあ社長の間は未遂に終わったけれど」

なぜ2位ばかり続くのか

1955年創部の富士通サッカー部が川崎フロンターレとしてJリーグに準加盟したのが97年。99年にはJ2を制し、翌00年はJ1で戦ったが、1年でJ2に逆戻り。社長に就任したのはそんなタイミングだった。本人に言わせると「青天のへきれき」の人事。

以降、チームは着実に強くなったが、なぜか04年のJ2優勝以外、タイトルが遠かった。06年、08年、09年はJ1リーグで2位、07年、09年のヤマザキ・ナビスコ・カップと17年のルヴァンカップは準優勝。16年はJリーグ・チャンピオンシップに前期2位、後期3位で進出しながら結局3位、天皇杯も準優勝に終わった。

生え抜きの中村は15年目での初優勝に号泣した=共同

「なぜ2位ばかり続くのか。それがわかれば手は打てたよ。壁を破るためのツキがないと感じることもあった。肝心なところで勝てないと周りに言われるから、選手も大事な試合で過緊張になる部分があった。昨年のルヴァンカップ決勝のC大阪に奪われた先制点なんか、開始40秒くらいでしょ。普通には考えられないようなミスをやってしまうわけで。09年のヤマザキ・ナビスコ・カップ決勝もそうだ。絶対に勝てると思って臨んだけれど、それがいけなかった。この試合もFC東京にGKのファンブルで先に点をやってしまった」

とはいえ、「シルバー・メダル・コレクター」という称号は優勝争いに確実に絡むチームになった証拠。地域密着でも成功のモデルケースとされる。

「社長になったのはフロンターレがJ1からJ2に降格したシーズンの直後。01年の、社長になった初めてのシーズンの最中、フロンターレの試合を見た後にある地元の会合に顔を出した。そこで痛感したのがチームのことがまったく知られていない、興味を持たれていないということだった。地元の商店街の寄り合いなんかに出ても『弱いよね』『親会社からお金をたくさんもらって、それで強くすればいいじゃん』『強くなったら応援にいくよ』とかいわれてね。Jリーグが『100年構想』としてうたう『地域密着』『スポーツでもっと豊かな国へ』という理念のとおり、プロ野球と違って地域の人に愛されないとファンは応援に来ないと痛感させられた。駅前でビラ配りとかしても当時は誰も受け取ってくれない。見向きもされなかったからね」

「地元に入り込むためにはよほどの方針転換をしないとダメだなと思ったのよ。それで『見えるところからやる』ということで最初にやったのが社名変更と他社からの出資。それまで富士通の100%出資だったクラブに川崎市や地元企業、個人株主からも出資を募り、社名を『富士通川崎スポーツマネジメント』から『川崎フロンターレ』に改めた。富士通本社の反対はもちろんありましたよ。本社に掛け合ったけれど2回ダメだしされたし。3回目のお願いでやっとOKが出た」

「富士通の川崎工場には1万5000人強の社員がいる。それは強い味方なんだけれど、そこに安住しては器は広がらない。訴える相手は工場の1万5000人じゃなくて130万人の川崎市民なんです。企業色を薄めて、川崎の町を活性化するお手伝いがしたいという本気を示すには、社名と出資比率を変えることが第一歩になるという訴えをついに認めてくれて」

「富士通川崎スポーツマネジメントなんか、富士通本体から見たら吹けば飛ぶようなちっぽけな会社ですよ。それでも出資比率を変えて社名を変えるとなると本社の経営委員会にかけないといけない。それは簡単な作業じゃなかった」

行政の支持を取り付けたのも大きかったのではないだろうか。

地域密着とチーム強化はクラブにとってクルマの両輪=共同

「フロンターレの発展に、前市長の阿部孝夫さんの御理解と後押しがあったことは間違いない。自治省(現総務省)出身の役人だったのを早めに退官されて、大学教授になっていたところを市長選に担ぎ出されて01年10月に当選された。13年11月に退任されるまで陰に陽にクラブを応援してくださった。阿部さんは『音楽とスポーツのまち、川崎』というスローガンを打ち出されて、東京交響楽団を市のフランチャイズオーケストラにしたりした。市内には昭和音楽大学、洗足学園音楽大学もあって、そういうリソースをうまく活用して街づくりに生かすという発想を持っておられた。スポーツならフロンターレがあると」

「ただ、阿部さんが言うには『自治体というのは一番風呂には入れないんだ』と。行政が先頭に立って出資すると『営利団体のサッカークラブに肩入れするのはおかしい』と騒ぐ人も出てくる。『サッカーだけ特別扱いするな』みたいなね。だから『なぜ、フロンターレを応援してやらないんだ』という声が市民の間からほうはいと湧き起こるくらいの環境をクラブが整える方が先なんだよ、と」

とにかく挨拶回りと営業

「それからは私の仕事はとにかく挨拶回りと営業だよ。市役所の人間をつけてもらってあちこちの団体を回ったね。富士通の100%子会社じゃなくするために、地元の企業に出資を頼んで回る。1年くらいの間で三十数社が出資を申し出てくれた。個人の株主でお手本にしたのはコンサドーレ札幌。個人個人が株主として総会に参加すると事務的に膨大な負担がかかるので、個人持ち株会として1票の議決権を持ってもらうことにした。会員を募集したら406人が集まって3000万円以上集まった」

「余談になるけれど、地元の会合に出て必ず会うのが市議会議員の先生たち。僕が顔を出すところ、出すところ、議員さんも必ずいるんだよ。新年会だの賀詞交換会だの商店街や組合の総会だの、人が集まるそういうところには必ず議員さんもいる。そういう場所に何年もしつこく顔を出し続けて『お願いします』と頭を下げていると、だんだんと評価されるようになる。議員とクラブの社長というのは、どこか似ているのかもね」

宮城県亘理町出身の武田さんがサッカーを始めたのは中学校から。仙台一高、慶応大でもサッカーを続け、富士通でもプレーするつもりでいたが、当時の八重樫茂生監督に「選手としては先はない」と引導を渡され、入社2年目からサッカー部のマネジャーに転じ、日本リーグの運営委員なども務めた。80年代初め、転勤をきっかけにサッカーからすっぱり足を洗い、社業に専念。電算機事業本部、ソフトウェア事業本部などで課長職、部長職を務めるようになっていた。そこから社命でいきなり社長になった。51歳になったばかりのことだった。

「最初は面食らうことばかりですよ。首都圏には、ディズニーランドがありプロ野球がひしめいていて娯楽が身近にあるという都会ならではの難しさもあるし。エリア的にも川崎市は北部、中部、南部と縦長に伸びていて特色も違う。それをゼロからまとめていくのは大変だった」

「イチからじゃなくてゼロからの出発というのは、川崎市にはヴェルディというホームタウンを同じくする先輩がいたこと。この先輩が地域に密着していなかった。僕が挨拶回りに行くと『せっかく応援していたのに後ろ足で砂をかけるようにヴェルディは川崎を出て行った。お前らも同じだろ』と白い目で見られた。そういう意味では、僕らはヴェルディを反面教師にしたところはある。フロンターレは違うということを時間をかけて実行して証明するしかないと」

切っても切れない関係に

「地域密着とチーム強化はクラブにとってクルマの両輪。優勝争いに絡むようなチームにしていくことは大命題ではあるけれど、川崎という市を活性化することも非常に重要なミッション。われわれが町の象徴になるくらいの意気込みですよ。強さは必要だけれど、いつも勝てるわけじゃない。勝っても負けても切っても切れない関係に持ち込むしかないぜと」

「クラブ経営という面でもびっくりすることが就任当初は多かった。経理なんか本当に"どんぶり勘定"に近かった。カネがなくなれば発注をやめればいいんでしょう、みたいな感じで。クラブとしての収支を精査し、部門ごとに予算を立てて、しっかり執行していくという当たり前のことがなされていなかった。だから、まず売り上げの目標をしっかり立てようやと。目標とともに、ここからはこれくらい、あそこからはこれくらいは獲得できそうだとしっかりめどを立てて実現に努力する。当然といえば、当然のことなんだけれど」

「支出の半分はチーム人件費で、ここはゼネラルマネジャーに招いた富士通元監督の福家三男に任せた。売り上げの半分、最大でも55%を超えない範囲でチーム人件費を使っていいと。この中でやるなら好きにやっていいと。僕は全体的なバジェット(予算)を見て、売り上げの目標を立て、実行を監督する立場に専念した」

「人事の考課制度もないに等しかった。僕がやったのは正社員を増やすことだった。富士通からの出向者を除くと、プロパーの連中はほとんど契約社員で、これじゃあ将来が不安だし、やる気も出ないと思ったから」

「僕が社長になった01年度、富士通は会社として初めて赤字決算になり、純損失が3000億円を超えた年だった。社内的にはリストラもしなきゃいけないし、『サッカーなんかやっている場合じゃないぞ』という声も当然あったと思う。そういう中で、フロンターレに対する物心両面の支援を変わらずやり続けてくれたことには感謝の念しかないですね。僕が引き継ぐ前に、クラブには約4億円の累積赤字があったけれど、それも減資してきれいな形にして僕に渡してくれたしね」

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