皇帝ネロの暴挙 焼け果てたローマに黄金宮殿を建てる
失敗だらけの人類史

人類の歴史は「失敗の歴史」ともいえる。善意に満ちた人々の行動や判断がときに裏目に出てしまうこともあれば、権力や財産に固執した悪意のある人々が多くの人々を不幸に陥れる最悪の出来事もある。
ナショナル ジオグラフィックの書籍『失敗だらけの人類史 英雄たちの残念な決断』(ステファン・ウェイア著)は、そんな人類の「失敗」の数々を取り上げ、何を間違ったのか、その結果どうなったのかを解説する本だ。ここでは同書から、悪名高きローマ皇帝「ネロ」の物語を紹介しよう。現代に伝わるネロの言動ついては、それが真実なのか、ねじ曲げられたものなのか、議論の余地がある。ただ、その「暴君像」から我々が学ぶべきことは、たくさんあるはずだ。
皇帝ネロの人となり
皇帝ネロは西暦54年から68年までローマを統治した。16歳で帝位に就いたが、それは母親のアグリッピナ(小アグリッピナ)の策動によるものといわれる。彼女は時の皇帝クラウディウスを説き伏せてネロを後継者に据えたうえ、皇帝を毒殺した。ネロが生まれたのは、キリストの磔刑(たっけい)から4年後の西暦37年。西暦53年にはクラウディウスの娘オクタウィアと結婚している。
ネロが歴史に名を留めているのは、歴史家のタキトゥスによるところが大きい。タキトゥスは、燃えさかるローマの街を窓から眺めながら上機嫌で竪琴を奏でるネロの姿を印象深く描いた。タキトゥスは、ローマの3分の2を焼き尽くしたという西暦64年の大火を起こしたのは、ネロだと疑っている。街を焼き払って更地にし、自分が住まう壮麗な宮殿を建てたいという欲求に駆られてのことだと。
確かに近年、タキトゥスが唱えたネロ犯人説の信憑性に疑問を投げかけようとする動きがある。しかし、ネロの性格を見ると、自分の望みを叶えるためには手段を選ばなかっただろうと思わせる要素に事欠かないのも事実だ。

ネロは芸術に関心が高く、とりわけギリシャの作品に心酔していた。自身も詩を書き、芝居を演じ、踊りを舞い、帝国各地を巡業さえした。同様に、土木と建築にも魅了されていた。また、ギリシャの競技や芸術コンクールをローマ市民に紹介したり、高名な竪琴奏者テルプヌスを雇って指導を受けたりもした。一方で、人が眉をひそめるような性的嗜好の数々も語り継がれている。
そんなネロに後見役としてあれこれ指図していたのが母親のアグリッピナだったことは明らかだ。しかし即位から数年のうちに、ネロは母親を宮廷から追い出してしまう。そして母親がネロの弟にあたるブリタンニクスを可愛がりはじめると、これを暗殺。母親も、ネロの新しい愛人ポッパエア・サビナに難癖をつけるようになったため、ブリタンニクスのあとを追わされた。
ポッパエア・サビナはネロの親友の妻だったが、彼女はどうやらネロの最もひどい悪行のいくつかを裏で奨励していたようだ。やがてネロは誇大妄想に取りつかれ、恐怖政治を始める。妻のオクタウィア、信頼の厚かったセネカら助言者が次々に犠牲となり、排除された。
都の再建計画
ギリシャ建築に対する関心が昂じ、ネロはローマの都を一から作り直すという途方もない計画を思いつく。凝った造りの宮殿や邸宅や楼閣が建ち並ぶ、壮麗な都に生まれ変わらせようというのだ。元老院は呆れ、ネロが都を作りかえるために必要だという大規模な取り壊しに協力することを拒んだ。
西暦64年7月19日の夜、戦車競技場キルクス・マクシムス(チルコ・マッシモ)を取り巻くように軒を連ねる商店から炎が上がった。いささか都合がよすぎるようにも思えるが、ネロは海辺の保養地に出かけていた。火が燃え広がる過程で、放火を目撃したという報告が数多く寄せられた。大著『ローマ史』を著したカッシウス・ディオは次のように書いている。「ネロはあれこれの手を使い、人を街に遣って酔っ払いのふりをさせたり、何か悪さを働かせたりした。そしてまず、いくつかの地区でひそかに火をつけさせた」

焼け野原と化したローマ
ローマはこの大火で焼け野原になった。死者の数は数え切れない。カッシウス・ディオによれば、再建はすぐに始められたという。「ネロは個人や属州から莫大な額の義援金を募りはじめた。大火を理由に、あからさまな強制徴収を行うことさえあった」
当然ながら、ローマ市民も帝国臣民も冷ややかだった。ローマ市民にしてみれば、皇帝は彼らの街と住まいを焼き払っただけでは飽き足らず、夢の「黄金宮殿」(ドムス・アウレア)を建てるためだと言ってカネを巻きあげているのだから。こうした人々の不満が問題を引き起こす可能性に思い至ったネロは、スケープゴート(生贄)として、当時ひそかに活動を続けていたキリスト教徒に目をつける。そして大勢のキリスト教徒が十字架にかけられ、火あぶりにされ、野獣に八つ裂きにされた。
ネロの権勢は、大火以降回復しなかった。火災の被害は甚大で、一般大衆の負担──それも、自分たちの家屋敷の再建よりも皇帝の黄金宮殿の造営に伴う負担──は途方もないものだった。帝国全土で急速に秩序が乱れ、各地で反乱が起き、元老院でも造反の動きが広がった。ネロを廃位する企てが相次ぎ、ついにネロは持ちこたえられなくなる。スエトニウスによれば、ネロは刺客が迫るなか、次のような言葉を口にして自害したという。「余の死によって、何と素晴らしい芸術家が1人、この世から失われることか」
[書籍『失敗だらけの人類史 英雄たちの残念な決断』を再構成]
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