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カヌー選手、禁止薬物混入事件の背景にあるもの

編集委員 北川和徳

危惧していた事態が起きてしまった。2017年のカヌー・スプリント競技の日本選手権で同年の世界選手権にも出場した男子選手がライバルとなる選手の飲み物に禁止薬物を混入させた事件が発覚した。被害選手はドーピング検査で陽性となり、潔白が証明できなければ4年の出場停止処分を受けるところだった。56年ぶりの地元開催となる20年東京五輪を目指した代表争いの過熱が前代未聞の愚行を招いたともいえる。

日本カヌー連盟や日本アンチ・ドーピング機構(JADA)によれば17年9月11日、石川県小松市で開催された日本選手権のカヤック200メートル(シングル)決勝レース前、小松正治選手(25)が置いていた飲料水のボトルに、鈴木康大選手(32)が禁止薬物の筋肉増強剤を混入させた。同レースで1位となった小松選手はそれを飲んで競技後のドーピング検査で陽性反応を示して失格となり、暫定的な資格停止処分を受けた。

「東京五輪に出るために…」

その後のカヌー連盟の調査の過程で鈴木選手が名乗り出て、薬物の混入を認めたという。鈴木選手はジュニア時代から全国レベルで活躍し、10年広州アジア大会で銅メダルなどの実績があるが、12年ロンドン、16年リオデジャネイロの両五輪へは出場していない。小松選手は14年仁川アジア大会で銅メダル。やはり16年のリオ五輪出場は果たせなかった。2人とも17年の世界選手権(チェコ)代表。鈴木選手は「東京五輪に出るためにライバルを陥れたかった」と話しているという。

倫理観が強いとされる日本のアスリートのクリーンなイメージを失墜させる残念な事件となった。救いがあるとすれば、鈴木選手が自ら非を認めて全容を明らかにしたことだろう。彼が告白しなければ、薬物を飲まされた小松選手は間違いなく4年の出場停止となり、20年東京五輪への道を断たれるのは確実だった。

海外のドーピング違反でも悪意のある第三者などに薬物を飲ませられるケースがないわけではない。というよりも、陽性反応で違反に問われた選手が弁明として使うのが「第三者に薬物を混入された」。だが、それが事実認定されて処分を免れることはほとんどない。

現在の世界反ドーピング機関(WADA)のルールでは、資格停止4年の厳しい処分となる非特定物質(競技力向上の目的以外での使用が考えられないもの)によるドーピング違反が意図的でなかったと主張する場合、潔白を立証する責任はアスリート側に課される。

つまり「私は絶対にやっていない。信じてください」と主張しても無駄。故意でないならどうやって自分の体内に薬物が入ったのかを明白にする必要がある。現実的に考えて、そのハードルは極めて高い。ほぼ不可能と言っていいだろう。もし薬物を入れられたのなら、被害者側がその犯行の瞬間の目撃者を必死で探さなければならない。たとえ運よく見つかったとしても、加害者が犯行を認めなければ捜査権もない一般人の立場で自分の潔白を証明するのは難しい。

だからトップアスリートには身に覚えのないドーピング違反に問われないため、日常の生活から常に高度な注意義務が求められている。警戒すべき相手はライバル選手だけでない。その支援者や関係者、ファン、自分のアンチファンまで含まれる。

自分が見ていない場所で開封された飲食物を口にしてはいけない。ファンからのプレゼントだって食べ物や飲み物は自分では受け取らないなどは、五輪を目指すアスリートにとっての常識。人から渡された飲み物を飲まないとか、自分のドリンクボトルから目を離さないことなどは基本的な心構えだ。万が一でも禁止薬物が体内に入ってしまえば、よほど運がよくない限りは処分を受けることになる。今回の小松選手のケースでも、ドリンクボトルを手元に置けないレース中の出来事でなければ、軽度の過失があったとされて数カ月程度の出場停止処分を受けた可能性すらある。

人間不信に陥りそうなひどい話だと思うのだが、ドーピングに関しては「性悪説」で対処してここまでやらなければ身を守れない。だが、ドーピング違反が少ない日本では、アスリートにも競技団体にもこうした意識はまだ徹底されていない。

今回のケースを考えても、競技中にまでドリンクボトルに注意を払えない事情を考えれば、競技団体や大会主催者などが責任を持ってボトルを管理する態勢を事前に整えておくべきだろう。

敗者への適切なケア、さらに

加害者である鈴木選手のやったことは言語道断。自身が意図的にドーピングをするよりもはるかに卑劣な行為だ。過去には他の選手に対しても器具を壊すなどの妨害行為があったという。事前に薬物を用意していることなど、魔が差したというよりも、以前から計画していた可能性が高い。引き金になったのは前日の500メートル(シングル)で5位に終わり、カヤックフォア(4人乗り)の代表入りが厳しいと思ったことだとされる。どんな事情があっても許されることではない。ただ、その後の反省した態度などを聞くと、精神的に追い込まれて正常な判断能力を失ってしまった末の愚行だったと思いたい。

ドーピングに問われないための対策はいろいろ考えられるが、こうした犯罪的行為を防ぐにはどうしたらいいのか。実は日本では意図的なドーピングがほとんどないため、勝つために不正行為に手を染めるアスリートの心理の研究や分析がほとんど行われていない。

ドーピング違反をめぐる紛争などでアスリートの相談をしばしば受けているスポーツ法務に詳しい弁護士はこんな指摘をする。「夢破れて敗者となってしまうことも想定してアスリートへの教育や研修など適切なケアをもっと行う必要がある」

2年後の東京大会は日本のアスリートならだれもが夢見る一生に一度の晴れ舞台。だが、地元五輪に絶対に出たいという思いが、許されない過ちにつながった。華やかなスポットライトの光の陰には、その何倍もの敗者の存在がある。競技団体は、彼らに寄り添い、守ってやることも忘れてはならない。

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